歴史家 石田先生の会津歴史逍遥

会津を温ね 日本を知る、歴史家と歩く会津の細道

会津の歴史は、幕末のみにあらず。この地の懐に分け入れば、豊かに伸びる奥の細道。
時代史を縦糸に、テーマ史を横糸にー、織りなす会津市のディープに触れる。

| 歴史逍遥 vol.1 |

なよたけの碑・西郷家21人の墓

会津婦道を詠った―

なよ竹の 風にまかする 身ながらも
たわまぬ節の ありとこそきけ
西郷千重子

西郷頼母の妻・千重子の辞世の句碑

「なよたけの碑」は、寛永20(1643)年、会津松平氏の祖保科正之(ほしなまさゆき)公とともに山形から移った曹洞宗祥雲山(そうとうしゅうずいうんざん)善龍寺(ぜんりゅうじ)境内にある。
山門は戊辰戦争でも焼かれず当時のまま。

石碑の名前は、北出丸前の本一ノ丁(ほんいちのちょう)に位置した松平家の分家にあたる西郷頼母(さいごうたのも)(1700石/1石は米150キログラム)邸で、妻・千重子(ちえこ)が自刃した際の、辞世の句からとったもの。
右脇にある千重子辞世の碑文の文字は、飯盛山で自刃し蘇生した千重子の甥、「飯沼貞吉(さだきち)」が書いた。

碑文の意味は「女(め)竹、細竹は、風に任せているように見え、私も今の時代に身を任せているが、竹にも折れないための節があるように、女性にも貞節があることを知っていてほしい」というもの。
千重子は34歳であった。

石碑の裏側には、戊辰戦争で亡くなった会津藩の婦女子233名の名前が刻まれている。石碑は、昭和3年に建立された。

西郷頼母一族の自刃―、その壮絶

慶応4年8月23日(現在に10月8日)、新政府軍は戸ノ口原で白虎隊らを破り、土佐藩の板垣退助らを先頭に若松城下に進攻した。朝の9時頃であった。

城下では、戦いの足手まといにならないようにと自刃(じじん)した婦女子が多くいた。
西郷頼母邸では、千重子(飯沼家より嫁ぐ)の長女ら5人をはじめ、一族21人が城に入らず屋敷で自刃した。

千重子の義母の律子(りつこ、58歳)、妹の眉壽子(みすこ、26歳)、妹の由布子(ゆうこ、23歳)、長女の細布子(たいこ、16歳)、二女の瀑布子(たきこ、13歳)は、辞世の歌を残し自刃。
千重子は、三女の田鶴子(たづこ、9歳)、四女の常盤子(とわこ、4歳)、五女の李子(すえこ、2歳)を刀で刺し、母と妹らは互いに刀を刺して亡くなる。

その他、支族の西郷鉄之助夫婦、母の実家・小森家の祖母や婦女子、親戚で江戸藩邸から避難し、西郷家にいた親戚ら21人が亡くなった。

西軍・川島信行の伝える自刃の場

『西郷隆盛一代記』に、薩摩藩士(かつては土佐藩士といわれていた)の川島信行(のぶゆき)が、西郷邸の玄関より入り、書院とおぼしき所を通り、奥の部屋に進むと、男女が環座(かんざ/丸く座る)で自殺していたという。

細布子(たいこ)はわずかに息があり、「その所に参らるゝは、敵か味方か」と尋ね、敵ならば、戦おうとするしぐさをしたが、川島が「味方だ、味方だ」と叫んだ。

細布子は、その場に倒れ、懐剣(かいけん)を出し、咽喉を刺そうとするが出来ず、川島が不びんに思い介錯(かいしゃく)したという。
そして、辞世の短冊を持ち帰った。

東山の会津武家屋敷に自刃の場が再現されている。

なお、西郷頼母は、明治36年、西郷邸に近い市内、東栄町の香寿庵奥の長屋で亡くなり、善龍寺に墓が建てられた。

※年齢は数え年。

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