歴史家 石田先生の会津歴史逍遥

会津を温ね 日本を知る、歴史家と歩く会津の細道

会津の歴史は、幕末のみにあらず。この地の懐に分け入れば、豊かに伸びる奥の細道。
時代史を縦糸に、テーマ史を横糸にー、織りなす会津市のディープに触れる。

| 歴史逍遥 vol.4 |

白虎隊自刃の真相(3)
8月23日、飯盛山での自刃

23日、飯盛山自刃までの行動―戸ノ口原から滝沢街道

23日、戸ノ口原から退却し、城を目指す。

途中、点呼し人員16人を確認。
隊士の中には、腰に残飯を多少持っている者がいて、それを出し合い、石地蔵の前にある窪石入れに水を入れ、その中で混ぜ、交互にみなで、手ですくって食べた。

その後、進み、滝沢街道に出た。

9時頃、滝沢街道を進む幾多の兵を見かけ、敵か味方かを試すため、合言葉を掛けたところ、銃を向けられ発砲された。

そのため、南の飯盛山へ逃げた。

戸ノ口堰洞門を通り、飯盛山中腹へ

永瀬雄治が股を撃たれたので、山頂を目指すのはやめて、戸ノ口堰洞門に入り、飯盛山の中腹を目指すことにした。

洞門には水が流れていた。10月に入り、水は冷たかった。

洞門を出ると、弁天堂で休息し、さらに上を目指し、滝沢の墓地より高所にある自刃の地にたどりついたのは、10時頃であった。

飯盛山、自刃の地での激論

ここで、野村駒四郎が「敵を衝くか、城へ戻り戦うか(井深茂太郎が蒲生氏郷公の築いた名城なので落城することは無いとして)」と言い、互いに激論を交わす。

篠田儀三郎が、
「策の講ずべきなし、城に入るは不可能ではないが、誤って敵に捕まり、 捕虜となったら、上は君に対し面目あるや。下は祖先に対し何の申し訳やある。潔くここに 自刃し、武士の本分を明にする」
として、議論定まり、一同鶴ヶ城を見て、自刃となる。

午前11時頃であった。

その後、石山が到着。自刃する。

白虎隊士、自刃その後―

自刃者の中で、最初に飯沼貞吉を発見したのは、地元慶山の渡部ムメのようである。
飯沼貞吉は、午後4時頃、印出ハツによって、塩川へ徒歩で連れて行かれる。

白虎隊士らの遺体は検視されたものの、そのまま放置されたことから(一部埋められたものもあるが)、滝沢の吉田が秘かに妙国寺へ運びこみ、埋葬した。

飯盛山の整備

明治7年、滝沢妙国寺から改装。遺骸会葬をする。

青森県三戸市に白虎隊の墓標が建立されるのが明治10年頃。

明治17年8月25日、容保公も参列し、飯盛山にて、16士で墓を整備。
明治23年、23回忌で墓が19士となる。

明治28年、文部省唱歌に19士として歌われる。

大正6年に弔霊義会が設立され、15年に墓前が山川健次郎の努力で整備される。
昭和3年、会津婦人殉難碑が山川健次郎により建てられる。
9月に秩父宮勢津子妃が結婚。

ローマからポンペイの記念碑が昭和元年に送られ、昭和3年12月に除幕となる。
ドイツから記念碑が昭和10年に送られ、12年6月に除幕となる。

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