歴史家 石田先生の会津歴史逍遥

会津を温ね 日本を知る、歴史家と歩く会津の細道

会津の歴史は、幕末のみにあらず。この地の懐に分け入れば、豊かに伸びる奥の細道。
時代史を縦糸に、テーマ史を横糸にー、織りなす会津市のディープに触れる。

| 歴史逍遥 vol.2 |

白虎隊自刃の真相(1)
慶応4年(1868)8月22・23日の行動

飯沼貞雄『白虎隊顛末記』、大山柏『戊辰役戦史』、楢崎頼三『陣中日記』より

8月22日(現在の10月8日)、佐川官兵衛は指揮官として、白虎隊、奇勝隊、敢死隊、誠忠隊、回天隊ら約250人を率いて、戸ノ口原、十六橋へ向かう。
胸壁を築き、陣を造る。戸ノ口原には、 幕府兵と敢死隊ら200余人を配置。 残りは南の笹山へ配置される。

二本松街道大寺方面へは、萱野(かやの)権兵衛が、桑名兵ら約200人を配置(陣跡が残る)。
湊町の背炙り山方面へは、西郷頼母(たのも)が、水戸兵ら約150人を配置。

22日昼、白虎隊は日向内記(ひなたないき)隊長以下37人が滝沢本陣へ。 塩見常四郎が戸ノ口原より到着し催促。白虎隊の半隊を先に行かせる。
残りの半隊も行き、滝沢峠の舟石茶屋で合流。携帯品を茶屋に預ける。

22日夕方、薩摩の伊地知正治(いぢちまさはる)、土佐の板垣退助ら約2千人の主力は猪苗代に滞在。
戸ノ口原へは薩摩の河村与十郎らが向かい、十六橋(長さ2間、幅90センチの石を並べた橋)を占拠し、戸ノ口に陣地を構築。 会津藩は、佐川官兵衛を指揮官として、強清水集落の東1丁半(約160m)、左側小山(菰土山)に穴を掘り胸壁とする。

22日午後4時、幕府兵約15人がラッパを吹いて敵へ突撃、2、30人が加勢、敢死隊は和銃と槍で戦った。 白虎隊は、津田ら7人で斥候(せっこう)に出たが戦わず。 午後6時頃、戸ノ口の陣地を和銃と槍の敢死隊へ譲り、篠田隊は、戸ノ口原の陣へ移動。

会津藩の軍政 1868年3月10日制定

年齢を中国の四神名(東西南北)で区分。

階級により区分、合計31番隊約2800人。
1番隊は約100人、白虎隊だけは約50人で編成(戦国時代は50人編成)。
その他、砲兵隊約300人、築城兵約200人、指揮官約200人。
合計=約3500人が会津藩の正規兵力。

その他=新練隊、農・町兵(敢死隊・士分にした者250人を含む)、約2700人。
正奇隊、地方御家人、修験隊、力士隊など、約3,200人。

総合計=藩の正規兵とその他の義勇兵を含め、約9400人。

【北】「玄武隊」(50歳以上)
[士中]1番隊、[寄合]1番隊、[足軽]2番隊、計4番隊
【東】「青龍隊」(36〜49歳)
[士中]3番隊、[寄合]2番隊、[足軽]4番隊、計9番隊
【南】「朱雀隊」(18〜35歳)
[士中]4番隊、[寄合]4番隊、[足軽]4番隊、計12番隊
【西】「白虎隊」(16〜17歳)
[士中]2番隊、[寄合]2番隊、[足軽]2番隊、計6番隊

白虎隊士中二番隊44人は、篠田隊17人、山内隊20人、原田隊7人で編成

中隊長は日向内記。
小隊長は篠田儀三郎、山内弘人、水野祐之進。
半隊長は原田勝吉、佐藤駒之進。

日向隊長が8月22日夜、敢死隊へ軍議のため出かけたが、戻らずに行方不明となり、小隊長の篠田儀三郎が指揮をとる。

平石弁蔵『会津戊辰戦争』の食糧調達説は間違い。

飯盛山に墓がある19人の氏名
明治17年に16人の墓が造られ、のち23年に19人の墓となる

飯盛山で自刃した者は17人。そのうち、飯沼貞吉(後に貞雄と改名)1人が蘇生する。

篠田儀三郎17歳、安藤藤三郎17歳、間瀬源七郎17歳、簗瀬勝三郎17歳、 野村駒四郎17歳、石山虎之助17歳(遅れて加わり自刃する)、伊藤俊彦17歳、鈴木源吉17歳、西川勝太郎16歳、有賀織之助16歳、簗瀬武治16歳、永瀬雄次16歳、井深茂太郎16歳、津川喜代美16歳、林八十治16歳、石田和助16歳。

※飯沼貞吉16歳は、後に蘇生。
墓は仙台輪王寺にあり、後に飯盛山にも造られる。

※戸ノ口原や滝沢不動滝上流で戦死した者は、
伊東悌次郎17歳、津田捨蔵17歳、池上新太郎16歳の、3人。

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