
会津 身不知柿の由来
今回の石田明夫先生による歴史コラム「会津 歴史逍遥(しょうよう)」vol.8では、会津の誇るべき皇室献上柿「会津・身不知柿(みしらず)」について見ていきたいと思う。 物事の由来を尋ねれば、必ずそこに関わる「人」の営みの熱に触れることになる。そして、人の営みの熱に時間軸が加われば、それが、即ち「歴史」となる。 さあ、この「身不知柿」には、どのような「歴史」があるのだろう。今回も、石田明夫先生のコラムを通して、そんな「歴史」に触れていこう。
身不知柿(みしらずがき)にまつわるお話
戦国時代の天正年間に、福島県二本松市小浜を支配していた大内氏は、小浜にある西念寺の住職・夕安和尚を中国に派遣しました。そうして、その夕安和尚が中国から持ち帰ったと伝えられるものの中に、「柿」がありました。 当時から、甘柿と渋柿の双方があったとされています。
大内氏は、天正13(1585)年9月25日に滅亡。会津へ逃れています。その際、宮森一族(大内氏が治めていた宮森城の家臣・領民ら)も一緒に会津へと入っています。 そしてその際に、西念寺の柿も持ち込まれたとされています。
それが身不知柿のもとになりました。
会津では、甘柿は根づかず、渋柿が広がりました。 また、会津では漆器が盛んであり、渋を多用することからも、柿は盛んに栽培されました。 渋は、紙に塗り、傘に貼り、また防水シートの代わりとしても多く使用され、いつしか会津は、全国でも有数の柿の産地として知られるようになっていきました。
会津では、会津若松市門田町御山を中心とする区域が柿の名産地として知られています。
標高の高い地域では柿は育たないことから、会津の中でも猪苗代地方や南会津などでは栽培されていません。
江戸時代、神社などの秋祭礼の際には相撲(すもう)が奉納され、柿がそのご褒美とされていました。
身不知柿は身が大きく、焼酎で渋抜きすることから、種はありません。 甘みがあり、二日酔いにも効くとされています。
さて、その名前の由来ですが、多くの実を付けることから「身のほどを知らず」と言われ、そこから「みしらず」と呼ばれるようになりました。
徳川将軍に献上した時には、「未だ、かかる美味の柿を知らず」と賞賛されています。現在では皇室献上柿としても知られています。