歴史家 石田先生の会津歴史逍遥

会津を温ね 日本を知る、歴史家と歩く会津の細道

会津の歴史は、幕末のみにあらず。この地の懐に分け入れば、豊かに伸びる奥の細道。
時代史を縦糸に、テーマ史を横糸にー、織りなす会津市のディープに触れる。

| 歴史逍遥 vol.7 |

与謝野晶子と裏磐梯

今回の石田明夫先生による歴史コラム「会津 歴史逍遥(しょうよう)」vol.7では、会津の自然の美しさに魅せられた、ある日本の女流作家・歌人について眺めていきたいと思う。
 ―与謝野晶子(よさのあきこ)。
日露戦争当時、「君死にたまふことなかれ」を『明星』に発表したことで名高いこの情熱的な歌人は、会津の澄明にして静謐(せいひつ)な湖沼に心を奪われた。
その感動は、彼女が残した歌を通して、今なお鮮やかなものとして、わたしたちの胸を心地好く打つ。

与謝野晶子、会津の湖沼を望んだ感動を歌に残す

晶子が泊まり、感動した五色沼と桧原湖(ひばらこ)については、9首の歌に思いが込められている。宿跡(裏磐梯高原ホテルの場所)から見た「弥六(やろく)沼」と裏磐梯。

動かざること 青玉に 変わらねど 落ちて流れる 音ある湖水

湖沼ども 柳葉翡翠(やなぎばひすい) 竜胆(りんどう)の いろ鴨跖(つき)くさの 青をひろぐる

五色沼 いくつの色を しか呼べど 数を知れるも あらぬ沼かな

与謝野晶子は、会津へ2度来ている。

1回目は、明治44年8月、会津若松市の東山温泉新瀧楼(新瀧)へ。 2回目は、与謝野鉄幹の一周忌にあたる昭和11年9月に。その前年には、猪苗代から裏磐梯のまで道路が出来ていた。 会津に来たのは、会津若松市の森蘭丸子孫と伝えられる森芳介・愛子兄妹の招きであった。9月4日、猪苗代長浜の鳥万ホテル(「みなとや」の北隣)に宿泊。

5日裏磐梯に入り、9首歌を残した。 歌からは、五色沼の神秘な色、湖畔で草花の姿や沼の色の多さに驚いた様子が窺える。その日は、裏磐梯高原ホテルの地にあった別荘に宿泊。別荘は、会津若松市の宮森太左衛門・遠藤十次郎(醤油屋、新横町滝口太右衛門12男、遠藤家へ養子)所有。

6日、猪苗代に出て、東山温泉の向瀧に宿泊。 7日、鶴ヶ城や御薬園、会津女子高等学校(現葵高校)で講演をした。その日は、会津若松市柳原の森家(越後国長尾氏屋敷跡)に宿泊。10日に帰京した。

昭和15年には、森芳介と晶子の6女藤子とが結婚。晶子は、昭和17年5月29日に死去。

昭和17年の晶子の遺稿集 『白桜集』に「会津詠草」として裏磐梯の歌が収められた。 与謝野晶子と鉄幹の住まいは、現在、「南荻窪中央公園」(東京都杉並区南荻窪4丁目)となっている。

東京都杉並区と会津の北塩原村は、保養地協定を結んで交流を深めている。 裏磐梯に関しては、福島県白河市出身の中山義秀が19歳でその地を訪ねており、旅の思い出を回想録「裏磐梯」の中でまとめている。 また、井上靖(やすし)は、昭和36年10月に小説「小磐梯」を書いている。

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