

1845-1932
幕末の会津の地に、会津藩の砲術師範・山本権八と佐久(さく)の子として生を享けた山本八重は、城下町・会津の謹厳・実直な風土の中にあって、「什の掟 (ならぬことはならぬものです)」などの会津人としての道徳観を深く胸に刻みつけながらも、一方で、自由闊達、男勝りな少女時代を過ごした。兄に「會津藩 校・日新館」で学んだ英傑・山本覚馬を持ち、その影響もあって、いよいよ、銃術に親しんで―。白虎隊の悲劇が今なお伝わる「戊辰戦争(会津戦争)」、その際の 「鶴ヶ城籠城戦」において、八重は、自らゲベール銃や、新式のスペンサー銃を担いで、迫り来る薩摩・長州を中心とした西軍(新政府軍)と勇敢に対峙していく。その奮 闘ぶりから、「幕末のジャンヌ・ダルク」や「烈婦」などと称されている八重だが、明治になって京都の地に移ると、一転、時代を先駆ける開明的な「ハンサムウー マン」へと華麗な転身を遂げることとなる。そこにはキリスト者・新島襄との出逢いがあった。新島襄と再婚(最初の夫は川崎尚之助)した八重 は、襄の同志社大学設立の夢を、妻として支え続けていった。襄の亡き後、八重は、日本赤十字社の正社員となって、日清・日露戦争の篤志看護婦として、滅私的 に傷病者の看護にあたり、また、看護婦の地位向上にも努めていく。まさに「日本のナイチンゲール」と形容するに相応しい、この一連の働きが認められ、結 果、皇族以外の女性として初めて日本政府より叙勲を受け―。会津の地を離れて後も、会津人の心を忘れずに、背にすっと一本の筋を通して、弱きを助ける活動 に己の生涯を捧げてきた八重の一生は、今を生きる我々の心を熱く奮わせる。