八重の物語り 凛として立つ山本(新島)八重の生涯

八重の物語

会津に、福島に、日本に捧ぐ

凛として立つ 八重の物語

会津の地で激動の幕末を迎え、
滅藩の憂き目を見た、山本八重(後の新島八重)。

時代が転回し、「逆賊」の汚名を背負わされた会津人―、
その多くが、無念の内に戦場で散り、
生き残った者も、家族を失い、郷里を追われた。

そんな苦難の中にあっても、
八重は、故郷の地・会津より授かった魂を胸に、
己が信じる「義」を貫き、
凛と真っ直ぐ、前を向いて。

幕末から昭和にかけて、
持ち前の快活さと、不屈の情熱、
そして、新時代の知性をもって
颯爽と時代を駆け抜けた、ひとりの会津女人がいた。

復興を願い、会津に、福島に、日本に捧ぐ―、
凛として立つ、八重の物語り。

会津の精神と兄の背中

少女は健やかに、枝葉を伸ばす

八重は、黒船来航より遡ること八年、
弘化二(一八四五)年に、藩の砲術指南役・山本家の三女として、
会津の武家屋敷にて生を受けた。

生家を北に少し歩くと、藩校である日新館があった。

女子であるため、直接通うことは出来なかったが、それでも、
その文武両道の気風は、利発な八重を心地よく刺激した。

―ならぬことはならぬものです。

その会津の根本精神を、肌身に沁み込ませながらも、
一方で八重は、少年のように溌剌と、山野を駆け巡った。

偉大な兄・覚馬の影響もあったろう。
兵学や蘭学に長けた兄に触発され、
八重は、裁縫よりも、家芸の砲術に見せられていった。

少年、その肩は狭くとも

不義には生きまいぞ

ペリー来航以来、幕府はその支配力を失い、
京を中心に、各地で倒幕の気運が高まりつつあった。

そんな中、時の藩主・松平容保公は、
徳川家への忠義を貫くために、京都守護職に就任。
悲壮な決意を持って、倒幕派の矢面に立った。

しかし、結局は大政奉還を迎え、時代は無情にも、
会津藩を「朝敵」の立場へと、追いやることとなる。

鳥羽・伏見の戦い以降、新政府軍の勢いは止まらず、
奔流のように、会津の地にも迫ろうとしていた。

そういった中で、会津藩士はもちろん、その家族までもが、
不義には生きまいぞ、と決死の覚悟を決め、武器を取る。

八重の隣家に住む、白虎隊士・伊東悌次郎も、その一人。
八重を姉のように慕い、常々、射撃の指南も受けていた。

そして、その悌次郎も、ついには出陣の時を迎える。

八重はどんな思いで、年若い悌次郎を見送っただろう。
数え歳で、わずか十五―、
少年の背中は、まだ、余りにも小さかった。

幕末のジャンヌ・ダルク

鶴ヶ城はなお、そこに立ち

白虎隊出陣の翌日には、早くも城下に早鐘が鳴り響いた。
滝沢峠を越え、新政府軍が若松城下に迫る。

城下町は黒煙に包まれ、そして、鶴ヶ城は固く門を閉ざした。
一ヶ月に及ぶ籠城戦が始まった。

八重は女の命である髪を切り、男装をして、夜襲に加わった。
砲撃の技術が認められ、砲台の指揮すら任せられた。

その働きは、後に「幕末のジャンヌ・ダルク」などと称されるが、
しかし、八重の戦は、そればかりではなかった。

女には、女の戦場があった。
兵粮を炊き、砲弾を作り、そして、負傷兵を看護した。

二十三歳の八重は、そこで、実に多くの「死」に触れた。

新政府軍の砲撃は、日を追うごとに激しさを増し、
そして、ついに降伏の白旗が、城門に掲げられた。

鶴ケ城開城前夜、八重は髪にさした笄を手に取り、
三ノ丸の雑物蔵の白壁に、歌を刻み付けている。

明日の夜は 何国の誰か ながむらん
なれし御城に 残す月かげ

新政府軍の苛烈な砲撃を受けながら、
月明かりの下、蒼白く、鶴ヶ城はなお、そこに立ち―。

会津人は、折れず

京都への旅立ち

開場後、八重は母らと共に、使用人の農家に住まった。
父も弟も戦死し、京都へ赴いた兄・覚馬の生死もわからない。
白虎隊士らも飯盛山で、自刃したと聞いた。

頼れるもの、たいせつなものの、多くを失った。

戦後、会津は滅藩処分となった。
幼君・容大公には、新たに領地が与えられたものの、
そこは、極寒の下北半島、斗南藩。

しかし、移住した旧藩士と家族らは、その苦難にも挫けなかった。
故郷・会津を思いながら、原野の開墾に努めた。

八重たちも、農村での暮らしに、ぐっと耐えた。

そして、明治になって三年が経ったある日、
兄・覚馬が、京で生きていたことがわかった。
ぱあっと、光明が差した。

兄を頼り、京へと出立するにあたり、
八重らは、山本家の墓がある、大龍寺に立ち寄ったことだろう。
その墓前で、八重はいったい何を思ったのか。

滝沢本陣の前を通り、峠を上りきると、
見慣れた五層の天守が、遠くにちいさく眺められた。

八重は万感抱きながら、御城に、会津に、別れを告げた。

ハンサム・ウーマン新島八重

襄のライフは、私のライフ

京都では兄・覚馬の下に身を寄せ、英語とキリスト教に触れた。

「鉄砲」から「教養」へ―、八重は掲げる武器を持ち替えて、
新時代の女性へと、鮮やかな変貌を遂げていく。

そんな中、八重は、アメリカ帰りの新島襄と出会い、結婚。

男女平等を新時代のあるべき姿と信じ、その範を示すべく、
あえて、夫を呼び捨てにし、馬車にも先に乗り込んだ。

「悪妻」と罵られたこともあった。
それでも、正しいことは正しいと、会津人らしく一徹に、
八重は、弱音ひとつ吐かず、凛と信じる道を行く。

襄は、そんな八重を次のように評し、深く愛した。

「彼女は見た目は決して美しくはありません。
ただ、生き方がハンサムなのです」

八重もまた、キリスト教布教と、同志社大学設立という、
襄の夢を、支え続けた。

―襄のライフは、私のライフ。

そんな二人は、明治十五(一八八二)年、会津若松へ伝道に来ている。
最愛の伴侶と共に踏んだ郷里の土―、
八重は、この傷ついた町の、豊かな未来を、静かに祈った。

日本のナイチンゲール

人に奉仕し、穏やかに

明治二十三(一八九〇)年、襄が志半ばにして、斃れた。
八重にかけた今際の言葉は、やさしかった。

「狼狽するなかれ、グッドバイ、また逢わん」

同士であり、最愛の夫が、逝ってしまった。
その哀しみに耐えながらも、八重は、日本赤十字社に加盟する。

会津の「什の掟」の中にある、弱者救済の道徳心と、
キリスト教・襄との暮らしの中で培われた、社会奉仕の精神。

それに、あの籠城戦の経験に対する想いも、あったろう。

日清、日露戦争の篤志看護婦として従事し、
それらの功から、後に、昭和天皇より銀杯を下賜されている。

晩年、八重は、茶堂にもよく親しんだ。

「烈婦」と称された八重だが、その頃の表情は穏やかで、
同志社の学生にも、「新島のおばあちゃん」と、愛された。

襄の夢の結晶・同志社大学に、遺産のすべてを寄付し、
八重は、昭和七(十九三二)年、その波乱の生涯を閉じた。

八重の墓は、襄と同じ、京都の若王子山にある。

人はみな、幸せにならねばならぬ

八重の願いよ、今に届け

激動の時代、家族も郷里も失って、
悔しさと頼りなさで、涙した日もあったろう。

しかし、八重は、決して下を向かず、諦めず。

物心ついた頃には、もはや血肉となっていた、
会津の根本道徳・「什の掟」。

―ならぬことはならぬものです。

八重はこの掟を、彼女らしく前向きに捉えていたに違いない。

「してはならぬ」という、禁止の強要ではなく、
「誇りを持って行きよ」と、背を押してくれる教えとして。
そう、心のよりどころ、として。

八重が今、生きていたら、会津に、福島に、日本に何と言うだろう。

きっと、こう言うのではないだろうか。
―未来を信じて、人はみな、幸せにならねばならぬ、と。

苦難を乗り越え、愛を知り、人の幸せを願い続けた、
八重の「物語り」は、今のニッポンの魂を、熱く奮わせる。

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山本 八重(新島 八重)

1845-1932

NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン・山本八重(新島襄の妻)

幕末の会津の地に、会津藩の砲術師範・山本権八と佐久(さく)の子として生を享けた山本八重は、城下町・会津の謹厳・実直な風土の中にあって、「什の掟 (ならぬことはならぬものです)」などの会津人としての道徳観を深く胸に刻みつけながらも、一方で、自由闊達、男勝りな少女時代を過ごした。兄に「會津藩 校・日新館」で学んだ英傑・山本覚馬を持ち、その影響もあって、いよいよ、銃術に親しんで―。白虎隊の悲劇が今なお伝わる「戊辰戦争(会津戦争)」、その際の 「鶴ヶ城籠城戦」において、八重は、自らゲベール銃や、新式のスペンサー銃を担いで、迫り来る薩摩・長州を中心とした西軍(新政府軍)と勇敢に対峙していく。その奮 闘ぶりから、「幕末のジャンヌ・ダルク」や「烈婦」などと称されている八重だが、明治になって京都の地に移ると、一転、時代を先駆ける開明的な「ハンサムウー マン」へと華麗な転身を遂げることとなる。そこにはキリスト者・新島襄との出逢いがあった。新島襄と再婚(最初の夫は川崎尚之助)した八重 は、襄の同志社大学設立の夢を、妻として支え続けていった。襄の亡き後、八重は、日本赤十字社の正社員となって、日清・日露戦争の篤志看護婦として、滅私的 に傷病者の看護にあたり、また、看護婦の地位向上にも努めていく。まさに「日本のナイチンゲール」と形容するに相応しい、この一連の働きが認められ、結 果、皇族以外の女性として初めて日本政府より叙勲を受け―。会津の地を離れて後も、会津人の心を忘れずに、背にすっと一本の筋を通して、弱きを助ける活動 に己の生涯を捧げてきた八重の一生は、今を生きる我々の心を熱く奮わせる。

山本八重(新島八重) 略年表

弘化2(1845)年
会津藩(現在の福島県会津若松市)で父・山本権八、母・佐久(さく)の間に生まれる。
兄に山本覚馬を持ち、砲術・銃術を学ぶ。
銃術を、近所に住む白虎隊士・伊東悌次郎に指南する。
嘉永6(1853)年
浦賀にペリー率いる黒船(アメリカ合衆国海軍東インド艦隊)来航。
慶應元(1865)年
川崎尚之助(但馬国・出石藩出身、日新館教授)と結婚。のち、戊辰戦争の最中に離縁。
慶應3(1867)年
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜により大政奉還。
慶應4(1868)年
戊辰戦争勃発。
1月
鳥羽・伏見の戦い。
会津藩主・松平容保公に同行していた兄・山本覚馬が薩長連合軍により捕縛される。
4月〜5月
奥羽越列藩同盟成立。
8月
母成峠(ぼなりとうげ)、戸ノ口原、滝沢峠の各所で、新撰組や白虎隊ら敗走。
鶴ヶ城での籠城戦が始まる。八重、スペンサー銃やゲベール銃を駆使し、応戦する。
9月
城外の一ノ堰(いちのせき)の戦いにて父・山本権八が戦死。会津藩降伏。
明治4(1871)年
京都府顧問に就任していた兄・覚馬を頼って、母・佐久(さく)、姪・峰と共に京都へ。
明治8(1875)年
新島襄と婚約。同年、同志社英学校開校。
明治9(1876)年
八重、洗礼を受け、新島襄と日本人クリスチャンの結婚式を挙げる(京都初)。
明治23(1890)年
新島襄、八重に「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」と言い残し、永眠。
八重、日本赤十字社正社員になり、以降、生涯を賭して奉仕活動に勤しむ。
明治27(1894)年
8月、日清戦争勃発。大本営が広島城(広島市中区)に置かれる。
八重はその年の12月より4ヶ月間、大本営併設の陸軍予備病院にて、
看護婦40人を率い負傷兵の看護にあたる。
明治28(1895)年
日清戦争の従軍記章を受ける。
明治38(1905)年
日露戦争において、篤志看護婦として従軍(大阪で2ヶ月間)。
明治39(1906)年
勲六等宝冠章を受ける。
昭和3(1928)年
昭和天皇即位の大礼の際に天杯(銀杯)を下賜される。
昭和6(1931)年
会津若松市内、慶山にある菩提寺・大龍寺に、山本家の墓を建立。
昭和7(1932)年
急性胆のう炎のため自宅で永眠。享年87歳。同志社社葬。

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