歴史家 石田先生の会津歴史逍遥

会津を温ね 日本を知る、歴史家と歩く会津の細道

会津の歴史は、幕末のみにあらず。この地の懐に分け入れば、豊かに伸びる奥の細道。
時代史を縦糸に、テーマ史を横糸にー、織りなす会津市のディープに触れる。

| 歴史逍遥 vol.6 |

娘子軍の戦い

今回の石田明夫先生による歴史コラム「会津 歴史逍遥(しょうよう)」では、幕末の会津戦争にて、中野竹子らが自発的に組織した女性のみの部隊・「娘子軍」について、眺めていきたいと思う。松平容保(かたもり)公の義姉である照姫様を、そして会津という国・郷土を護るために、決然と立ち上がった、女性たちの凛然たる生き様は、現代を生きる我々の胸にも、強く熱く響く―。

※「会津戊辰戦争」水島(依田)菊子81歳の談(年齢は数え)

婦人決死隊・女隊・娘子軍(じょうしぐん)の結成

幕末、会津藩士・依田(よだ)駒之新の婿・源治は、京都・伏見の地で戦死。 源治の妹の水島菊子は、義兄の敵として仇打ちの機会をうかがっていた。その時、門奈治部の婦人・梅子より薙刀(なぎなた)を習っていた会津女人が6人から7人いた。

時を同じくして、赤岡大介の門下生・中野竹子、優子ら20余人が国の危機を見て忍び得ず、「婦人決死隊」を結成。しかし、特定の指揮者はなく、婦人の一団にすぎなかった。

この「婦人決死隊」は、会津藩士の婦人の中で、中野こう子(44才)、その娘の竹子(22才)に優子(16才)、依田まき子(35才)、水島菊子(18才)、岡村すま子(30才)ら20余人で構成された女性だけの隊で、自分たちでは「娘子軍」と呼んでいる。

「会津戊辰戦史」によれば、藩は女子が戦いに参加するのは許さず、正式な隊とは認めぬまま、「女隊(おんなたい)」と呼んでいた。

水島(依田)菊子出発、中野親子、岡村すま子と合流

水島(依田)菊子は、母を女中に頼み農家に避難させる。 そうして、髪を斬った上でしかと束ね、白鉢巻(しろはちまき)、白襷(しろだすき)を掛けて、稽古で用いる義経袴(よしつねばかま)に一刀を横にし、薙刀を掻い込んで、姉ともに太刀4、5振りを抱えつつ、家を出た。

西出丸の城門は閉ざされて入れなかったので、銃弾が飛び交う中、西へと走った。十八蔵は燃え上がり、侍屋敷にも火の手が上がっていた。

無腰の人に太刀を与え、米代一之丁を通ると川原町口で、坂下(ばんげ)の玉木家に滞在していた中野親子3人(こう子、竹子、優子)と出会い、次いで岡村すま子と合流。

着物が雨に濡れ、重く疲れていたところに、城中より来た侍が、「照姫様は坂下驛(えき)へ御立ち退きになった」と聞き、一同、坂下へと向う。しかし、坂下でも照姫様はおらず、落胆し、坂下法界寺に入り、住民からご飯と万願寺鯉(鯉料理)を賄ってもらう。

8月25日、神指(こうざし)―涙橋での戦い

25日、今日こそかねての鬱憤を晴そうと、勇んで身支度をし、中野こう子、竹子、優子、依田まき子、水島(依田)菊子、岡村すま子の6人は、それぞれ色の違う義経袴(はかま)と着物、白木綿の鉢巻、二重の襷(たすき)をかけ、大小の刀に白足袋に草鞋(わらじ)をはき、薙刀を掻い込んで坂下法界寺を出た。 その出陣の際、近所の老婦女子も大勢来て、涙を流した。

坂下の陣屋に寄り、旧幕府の古屋作左衛門の率いる衝鉾隊(しょうほうたい)に加わり、共に城下を目指した。

神指の地・柳橋(涙橋)に進むと長州・大垣の藩兵は、川の両側に胸墻(陣地)を築いて、堅固に守備していた。 長州・大垣勢に攻撃を始めたのは、9時頃。家老の萱野(かやの)一隊が東の米沢街道方面より砲撃を開始。長州・大垣勢は柳土手に向けて盛んに鉄砲を放ち、味方もこれに負けじと打ち返した。

夕方、暗くなると接戦となり、長州・大垣勢の隊長らしき者が中野竹子らの一群を女と見て「討たずに生け捕れ」と激しく声を上げ始める。そうと分かると兵たちも、にわかに竹子らめがけて群がりだす。 「生け捕られるな、恥辱を受くるな!」と、大音声にお互いを呼ばわりつつ、必死に相手方に向け薙刀・刀を振るったが、竹子はついに、額に弾丸を受けて倒れてしまう。

竹子の妹・優子は、母の近くにいて、幾人かの長州・大垣勢を斬る。 母・こう子が「ヤラレタ」といい、怒り心頭、獅子奮迅の勢いで、眉間に銃弾を受けた姉・竹子に近づき、ようやく首を介錯することができた。 坂下に帰る途中、農兵が竹子の首を持ってくれた。

この間、戦闘は2、30分ぐらいのものであった。場所は乾田で、柳橋の北六丁離れた湯川よりの場所である。

鶴ケ城籠城戦

中野優子らは、25日の晩から27日までは坂下に居て、28日、皆とともに鶴ヶ城に入城を試みた。

水島(依田)菊子は、松平容保(かたもり)公に万願寺鯉7尾を献上しようと、家老・萱野権兵衛より付けられた2名の侍に護送され、城下に入る。 大町通りから割場、西出丸の西追手門から、合言葉にて開門させ、入城した。

断髪を無造作に束ね、あるいは、それすらできずに髪振り乱したまま、血汐に染まったぼろぼろの着物を着て、血の付いた薙刀を抱えながらの入城であった。 この時、山本八重子と落ち合い、鉄砲を借り受ける。

入城するとすぐに、鉄(くろがね)門にて松平容保公に拝謁を賜り、鯉を献上し大層お褒めに預かる。褒美として、容保公の御手から柿の実を頂いている。 また照姫様にも拝謁仰せつけられ、有り難い言葉を賜った。

菊子は、入城中、八重子より借りた鉄砲にて西軍を狙撃。その他には、弾薬の運搬などに従事していた。

菊子と優子は、男装をして年も若かったので、白虎隊とよく間違われた。

ある日、口火の付いた大きな砲弾が小田山より飛来して、多数負傷者のいる縁の下に入った。これを見ていたこう子は、すぐに手桶を提げてザブンと水を注いで、その砲弾の口火を消したので、多くの負傷者たちが助かった。

この時から、焼け弾の破裂を防ぐのは、婦人や子どもの仕事となった。

9月14日の総攻撃後、こう子は、手を洗う暇もなく、常に血だらけの手にてお握りや田螺なとどを食べつつ、働き続けていたという。

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