歴史家 石田先生の会津歴史逍遥

会津を温ね 日本を知る、歴史家と歩く会津の細道

会津の歴史は、幕末のみにあらず。この地の懐に分け入れば、豊かに伸びる奥の細道。
時代史を縦糸に、テーマ史を横糸にー、織りなす会津市のディープに触れる。

| 歴史逍遥 vol.3 |

白虎隊自刃の真相(2)
8月23日(10月8日)の戦闘

8月23日の戦闘―前夜から両軍激突前まで

8月22日、夜10頃、白虎隊の日向内記(ひなたないき)隊長が、敢死隊に用があると篠田に告げ出かけたが戻らないので、23日朝は一同唖然とする。

23日(現在の10月8日)、篠田小隊長は、朝4時に「気を付け」の号令を発し、17人の人員点呼後、ただちに「進め」の号令を発する。

少し進むと、戸ノ口付近より銃声が間近に聞こえたことから、水の無い水路に潜伏する。
溝の幅は5、6尺、土手の高さは2、3尺あった。

23日朝、少し雨、新政府軍の主力部隊は、朝3時に猪苗代を出発。
板垣退助指揮のもと、土佐を先頭に、大垣、大村、長州、佐土原、薩摩の順に進む。

戸ノ口原の両軍は、雨の中、一晩中篝火(かがりび)を焚いていた。

弾丸が飛来すること雨のごとし

朝5時頃、新政府軍は、街道を進み、白虎隊まで約100メートルに近づくと、白虎隊は側面から、篠田小隊長の「撃て」の号令で一斉射撃を開始。

新政府軍は、初め狼狽したが、しばらくして、「弾丸が飛来すること雨のごとし」となる。
銃身が熱くなり、手に持つことができなくなるほど発射した。

ここで、篠田小隊長は、刀を振りかざし、指揮を執る。中には弾にあたり介錯を頼む者もいた。池上新太郎、伊東悌次郎、津田捨蔵の3人が戦死、または負傷。

原田、山内隊は統率がとれておらず、前日大雨となり水をたたえた新堀(新四郎堀)に身を隠した。

退却命令、その後の行動

退却命令が出たので、篠田小隊は篠田を最後に、溝を出る。一旦最初の野営地へ戻る。
そこで、山内隊の石田和助、伊藤俊彦が篠田隊に合流し16人となる。

そうして、会津藩野営地に至るも、すでに誰もいなかった。

山内隊と原田隊は、若松城を目指し、背炙り方面に向かう。
原田隊4人は、空腹を満たすためキノコ小屋で松茸を煮て食べる。

そして、東山の愛宕山へ下り、城が火に包まれていたので、自刃しようとしたが、敢死隊員にいさめられ、城へ戻る。

山内隊も城を目指し、戻る。のちに、山内隊の石山虎之助が篠田隊を追う。

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