
会津の馬肉
石田明夫先生による連載歴史コラム「会津 歴史逍遥(しょうよう)」vol.9では、美食家の舌も満足させる、会津が誇る「馬肉(桜肉/サクラ肉)」についてのエピソードを紹介していきたいと思う。江戸時代が過ぎ新時代・明治を迎え、「新しい食」として注目を集めた「馬肉」。その新しい食文化の登場に関しても、会津では歴史的な逸話が関わってくる。
―東北で最初に文明開化の肉を食べた会津若松。
そこには、哀しい戊辰戦争の話がありました。
さあ、今回も石田明夫先生の解説で、会津の歴史の細道を散策しようか。
会津で馬肉が食べられたのは―
会津で、スーパーなどの食料品店に普通に売られているのが「さくら肉」と呼ばれる「馬肉」です。とくに脂身のない赤身の肉が好まれ特製のニンニクを擂り下ろして唐辛子と混ぜた味噌ダレに、醤油を合わせて食べるのが一般的です。 日常的に良く食べられ、最近では、寿司などにしても食べられています。
「馬肉」が会津で食べられるようになるのは、時代が大きく変化した1868年の戊辰戦争からです。東北地方では最も早く、文明開化の食べ物として「牛鍋」とともに「馬肉」が食されたのです。
肉食の始まり
会津の肉食の始まりは、鶴ヶ城の西隣にあった会津藩校「日新館」が最初です。
平石弁蔵著『会津戊辰戦争』によると、慶応4(1868)年8月、「各方面から傷病者が運ばれてくるので、日新館を臨時病院に宛てて収容し、幕府の医者・松本良順が院長として、蘭法治療を施した。このとき、牛馬を屠殺(とさつ)して、患者に与えたのが、会津地方における肉食の始まり」との記述があります。
鶴ヶ城籠城戦が始まった8月23日、山川健次郎著『会津戊辰戦史』によると、「西出丸より火箭(ひや)を射て之を焼く、傷兵歩(ほ)することを得たる者は城に入り、歩する能(あた)はざる者は自刃す」という状況で、日新館の建物は、会津藩自らの手によって焼き払われています。歩けない人は、亡くなっていたのです。
また、籠城戦中、傷病者に給する食物に関しては、9代藩主・松平容保(かたもり)公の義理の姉、照姫様が監督し、「本丸西隅に炊事場を設けて、羹蔬(こうそ/野菜を煮た汁)、魚肉、鶏肉、牛肉等を添え病室に運ぶ」との記録もあるように、籠城戦の城内では、体力の早期回復が目的で肉が食べられていました。
生肉の始まり
戊辰戦争以降、会津では「馬肉」が食べられるようになりますが、生で食することはありませんでした。 現在のように生で食べられるようになったのは意外と最近のことで、昭和30年からです。鶴ヶ城西出丸にプロレス興行に来た力道山が、会津若松七日町の肉屋に出向き、店先にて持参したタレを取り出し、生で食べたのが始まりです。