
会津ラーメンの由来
石田明夫先生による連載歴史コラム「会津 歴史逍遥(しょうよう)」も、今回で第10回目を迎えた。そんな「会津 歴史逍遥」vol.10では、皆に愛される「会津ラーメン」の歴史について、じっくりと眺めていきたいと思う。 会津地方では、会津若松や喜多方などで多くの名店が人気を集めているが(喜多方ラーメンなどはまさに全国区の知名度)、その歴史は、発祥は、と言われると、はてと首をひねってしまう。
―そもそも、日本人とラーメン(中華麺)との出逢いは?
会津ラーメンの由来を紐解きながら、日本のラーメン史にまで言及していく今回のコラム。 さあ、歴史の秘話や裏話をたずねて、石田先生と一緒に会津の歴史街道を辿っていこう。
会津ラーメンの特徴
会津ラーメンの特徴は、麺にあり。 平打ちの縮れの太麺。会津地方では、どの店も同じような麺となっています。手打ち麺は、さらに太く作られていることも多いです。麺工場は、会津若松市と喜多方市に集中しています。
スープは、店により独自の味を作り出していますが、豚骨ベースが主体です。 他に、煮干しを加えブランドしたものもあります。また、醤油がベースのものも多くあります。味噌味に関しても、店によって味噌のブレンドが異なっています。 具はチャーシュー、ねぎ、メンマを入れるのが一般的です。
会津では、味噌ラーメンと言えば、味噌味のシンプルなものと、いわゆる味噌タンメンを指すものがあります。味噌タンメンは、野菜、もやし、肉をふんだんに入れたものを言います。会津の味噌ラーメンといえば、多くは味噌タンメンを指しています。
喜多方市では、朝からラーメンを食べる風習(朝ラー)があり、現在でも朝7時から営業している店が多くあります。店舗数は約120店舗あり、人口の割にラーメン店の密度は日本一です。
日本におけるラーメンの歴史
江戸時代前期、寛文4(1665)年に、水戸藩の水戸光圀公が、日本人として初めて「中華麺」を食べています。水戸に来ていた儒学者の朱舜水が、光圀公の接待に対して、自国の「汁そば」を作って振舞ったのが最初です。 ただし、この中華麺は一般庶民に広まることはありませんでした。
明治中期になると、横浜南京街(中華街)で、「南京そば」の屋台が登場します。その前後に、相次いで現在のような中華料理店が続々と開店し、全国に広がっていきます。
明治16(1884)年には、北海道函館市の「養和軒」で、「南京そば」というメニューが登場します。函館新聞にメニューの広告が載せられています。この記事は、日本最初のラーメンの広告のようです。ただし、「南京そば」が、現在のラーメンと同じかどうかは、不明です。
会津ラーメンの歴史
会津ラーメンは、会津若松市の「三角屋食堂」が最初です。食堂の主人が、大正から昭和初期にかけて横浜に出稼ぎに行き、そこでラーメンを食べました。そして、会津に戻り、食堂を始めたのが興りです。 当時は、豚の肉を使用することから、会津ではあまり好まれませんでした。しかし、その味が少しずつ評判となり、店で修行する者なども出てきて、結果、会津全域に広まりました。
大正15(1925)年には、喜多方市で「源来軒」が開業します。喜多方市の昭和電工では、中国や朝鮮半島から移り暮らした人が多くいたことから、その人たちを中心に広まったのです。 昭和25(1950)年には、喜多方市に「まこと食堂」が開業します。当初は、入口にある6畳ほどの広さしかありませんでした。
会津ラーメンの最大手「幸楽苑」は、昭和29(1954)年に、先代の新井田氏が、会津若松市の神明通りに「味よし食堂」を開店したのが始まりです。全国展開され、現在では450店舗にまでなっています。
会津では、喜多方市の他に、西会津の味噌ラーメン、会津若松大戸町三寄のラーメンが知られています。上三寄周辺には5軒あり、その内の1軒は、もともと牛乳販売をしていて、後にラーメンを作り始めたことから、「牛乳屋食堂」と呼ばれています。 「うえんで食堂」の「うえんで」は、字上ノ台のなまり。「ばんげ屋食堂」は、夕方(晩)しか営業しなかったために、そう名付けられました。