八重の物語

八重により深く親しむ- えにしの資料館

スポットで巡る 八重ゆかりの地

弟のため、主君のため、八重が夜襲に使った銃ゲベール銃

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幕末期の安価でスタンダードな西洋銃

ゲベール銃とは、1670年代にフランスで開発され、1770年代にオランダが正式採用した、オランダ歩兵銃のこと。全長は約1.5メートル、重量は約4キロある。
ちなみに、「ゲベール」とは、オランダ語で「小銃」を意味している。

このゲベール銃は、幕末期に、軍制を西洋式に改革した幕府や各藩によって、大量に輸入されている。

しかし、その命中精度は低く、戊辰戦争の時点では、新式のミニエー銃やスナイドル銃より遥かに劣る銃として、時代遅れと見なされていたのが実情だった。

八重、白虎隊士・伊東悌次郎に銃術指南

八重の生家の隣にあった伊東左大夫家の次男、十五歳の伊東悌次郎(ていじろう)は、いよいよ新政府軍が会津に迫り来る中、八重に射撃を習いたいと申し出ている。

まだ幼さの残るこの十五歳の少年も、戦の逼迫感を肌で感じ取っているらしかった。
その目には、悲壮なまでの真剣さが宿っていた。

砲術指南の家に生まれた八重には、確かな射撃の技術があった。そして、少年の意志の固さを察した八重は、自分の持つその技術を伝授してやることにした。

『そこで妾(わらわ)は「ゲベール銃」を貸して機(はた)を織りながら教へましたが、最初の五六回引鉄を引く毎に雷管の音にて眼を閉づるので、其都度臆病々々と妾に叱られ案外早く会得しました、次に櫓(照尺)の用法や各種姿勢の撃方などを教へ、大概出来たので、今度は下髪長ければ射撃の動作を妨ぐる理由を説き、之を短く断(きっ)てやりましたが、特に厳格なる伊東家に無断で断髪したのは乱暴極まるとて、痛く母に叱られました』
(平石弁蔵「会津戊辰戦争」より)

八重の豪放な人柄とともに、悌次郎の少年らしいひた向きさが感じられる逸話ではないか。

八重に射撃を指南された悌次郎は、年端が足らないながらも、その銃術の腕が認められたのか、白虎隊に入隊を許された。

しかし、悌次郎は、その後、飯盛山の地で他の白虎隊士らとともに自刃。
今は、飯盛山の中腹にある「白虎隊十九士の墓」にて、静かに眠っている。

八重、弟・三郎を想い、夜襲でゲベール銃を取って

鶴ヶ城の籠城戦では、籠城一日目の夜から、八重は女子でただ一人、夜襲に加わる。

その夜襲を前にして、八重は、女の命とも言うべき髪を断っている。
一人で切ろうと思ったが上手くいかず、高木家の姉娘・時尾(ときを)に頼んで、長い髪を切ってもらう。

時尾は家も近く、幼なじみだった。八重は、高木家に裁縫を習いに行っており、きっと八重と時尾は、親しい友人同士だったのだろう。

また、八重のこの覚悟には、弟・山本三郎の死があった。
三郎は鳥羽・伏見の戦いで負傷し、その怪我が原因で、江戸の地で亡くなっていた。

八重は後年、語っている。

『私は、弟の敵を取らねばならぬ、私は即ち三郎だといふ心持ちで、その形見の装束を着て、一は主君のため一は弟のため、命のかぎり戦ふ決心で、城に入りましたのでございます』
(新島八重談「男装して会津城に入りたる当時の苦心」[婦人世界])

弟・三郎の形見を着て男装し、そして、ゲベール銃を握りしめて―、
八重の決意の程が、痛いほど伝わってくる。

筆者 : 浅見 直希
ニッポニアニッポン公式サイト

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