八重の物語

八重により深く親しむ- えにしの資料館

スポットで巡る 八重ゆかりの地

会津に誇りを宿す、あたたかい春風の使い会津彼岸獅子

6

春風ひきつれ、獅子おどる

長い長い会津の冬が終わりに差し掛かり、そうして迎えた、春分の日。雪の匂いは徐々に薄れ、代わりに、陽光明るく、いよいよ若葉が香り立つ―、そんな芽吹きの季節の到来を、この会津若松の伝統行事・「会津彼岸獅子」は、晴れやかに祝う。

「彼岸獅子」は、いわゆる獅子舞のことだが、春の彼岸の入りに合わせて披露されるため、会津では「彼岸獅子」の名で、親しまれている。
また、今日では、会津若松市無形民俗文化財にも指定されていて、その文化的価値も広く認められている。

「彼岸獅子」は、通常の獅子舞とは違い、一体をひとりで演じる。ふつうの獅子舞は、前脚と後脚にそれぞれ別れて演じるが、「彼岸獅子」では、ひとりの演者が一体の獅子となる。

獅子頭をすぽりとかぶり、美々しくも艶やかな衣装を身にまとう。御紋の入った頬掛を巻き、おなかの上にはちいさな筒太鼓(胴鼓)を、ぷらりとぶら下げる。そうして、両手には、箸くらいの大きさの可愛らしいバチを持って、これで、トコテン、拍子をとる。

そうして、三体一組(太夫獅子、雄獅子、雌獅子)となって、それぞれが、その草鞋(わらじ)履きの両の脚で、軽快に大地を蹴って、軽やかに、時に神妙に、練り踊る。
春を謳歌するこの舞は、豊作と家内安全を祈り、そして、会津のしあわせを、切に切に、願い奉る―。

現在では、春分の日の祝日に、鶴ヶ城本丸前や、会津若松市役所前、そして、阿弥陀寺境内など市内各所で、春を迎えた喜びを、大らかに、四方いっぱい振りまいている。

会津人の関心事―、ひいきの獅子団、その踊りぶり

「会津彼岸獅子」は、会津人にとって、大きな娯楽、エンターテインメントと言ってもよいものだった。 村から送り出された自慢の獅子団は、それぞれ、その出身村の名前を冠して呼ばれ、各地域で大いに親しまれた。

ちょうど、現代においては、地元近くのプロ野球団をひいきにするのと似た心境だろうか。いや、それよりも、もっと地縁的で、もっと皮膚感覚に近い、絶対的なひいき感情であったろうと思われる。

そいうわけで、当時の会津人たちも、自分の出身村から出た獅子団に肩入れし、そのために、他地域の獅子団とは、感情的に、ぷんと、対立することもあったという。
獅子団を形成する演者たちは、そのお役目に誇りをもっているし、そもそも、若き血を滾らす青年たちだ。 市中にて、他地域の獅子団と鉢合わせでもしたら、それはもう、やることは、ひとつ。

―そう、喧嘩(けんか)。

しかし、その喧嘩も、どこか牧歌的で、どこか雅(みやび)。
一触即発、双方ともに気色ばんで、いざ殴り合わんという際にも、ちゃんと、ひと呼吸を置く。
獅子は頭をすぽりと外して、楽士や弓持ちたちは、大切な楽器や小道具類を、道の端に几帳面にちょこんと片付ける。そして、お互いが片付け終わったのを確認して、しかる後に、ようやっと、乱闘が始まるのだ。

つまり、これは、“遊び”の延長なのだろう。 “遊び”であれば、決めごと(ルール)は必要だし、“遊び”である以上は、恨みっこなしだ。双方、喧嘩した後は、きっと、からりとしたものだったろう。

戊辰戦争時、山川大蔵の知勇・彼岸獅子の行進

幕末、戊辰戦争が始まると、新政府軍は怒濤のように滝沢峠を越え、一気呵成に若松城下に迫り、そして、慶応四(1868)年八月二十三日、鶴ヶ城は新政府軍によって、あえなく包囲されてしまう。

籠城していた会津藩主・松平容保(かたもり)公は、城中、寡兵たるを案じて、八月二十六日、南の日光口(南会津町田島)の守備に当たっていた、若干二十四歳の若き家老・山川大蔵(後の、山川浩陸軍少将)に、使者を出した。

命じて曰く。
「城中兵少なく、守備薄弱なり、速やかに帰城すべし、
 但可成途中(ただしなるべくとちゅう)の戦闘を避くべし」

大蔵はただちに帰城の途につき、そうして、小松集落(会津若松市北会津町小松)に差し掛かった。心は急くが、御城は新政府軍によって、ぐるりを固く取り囲まれている。これを突破せずには、入城は難い。
そこで、大蔵は「可なり我に一策あり」として、大胆な奇策に打って出た。

―それは、「彼岸獅子」と共に、堂々、行進しようというもの。

大蔵は、まず、小松村の大竹小太郎に、勇気ある独身の男を招集させた。その時、集められた「小松獅子団」の中で、現在、十人の名前がわかっている。

笛:高野茂吉(30)
御弓:藤田与二郎(11)
太夫獅子:蓮沼千太郎(12)
雄獅子:大竹己之吉(12)
雌獅子:中島善太郎(14)
笛:高木金三郎(14)
太鼓:渡部藤吉(18)
太鼓:大竹小太郎(14)
太鼓:藤田長太郎(17)
太鼓:高野長太郎(15)

(高久金市『小松獅子舞考』抜粋)

平均年齢は、十六歳にも満たない。そんな若き村人たちが、新政府軍が包囲している死地に赴いて、しかも、楽を奏で踊りながら行進するというのだ。失敗は、即ち、死を意味する。
彼らは、親族と水杯(みずさかずき)を交わし、悲壮な覚悟をもって、粛然と「彼岸獅子」の装束、道具類の準備をする。

その覚悟のほどの、見事さよ。
新政府軍を前にして、「小松彼岸獅子」の一団は、涼やかなまでに凛然と、楽手を先頭に、お囃子を“とひよれよれ(笛の調子の擬音)”と吹き鳴らし、川原橋を占領していた長州藩と大垣藩の南側を、堂々、行進していった。

新政府軍は、この突如として現れた奇怪な一団を、ただただ、拱手(こうしゅ)して、呆然、見送るのみ。先頭が城に入って、はじめて会津藩兵であったと知り、「ああ、してやられた」と、地団駄を踏んだのだった。

鶴ヶ城に籠城中の山本八重も、きっと、同い年の若き家老と、馴染みの「彼岸獅子」がやり遂げた、痛快な行進の一部始終を、眺めていたに違いない。

戦後、無事に村に帰りおおせた、この小松村の勇士たちは、何と、明治維新後、旧藩主・松平容保公によって、御薬園に招かれている。
そうして、そこで、容保公から感謝の言葉を賜り、さらに、「獅子の頬掛け」と「高張り提灯」に、「会津松平家の葵御紋(会津葵)」の使用を許されて―。

この会津葵の御紋の使用は、各獅子団の中でも、「小松獅子団」だけに、特別、許されたもの。現在でも、そういった歴史を、御紋より感じ取っているかのように、「小松獅子団」の獅子たちは、誇らしげに楽(がく)に踊り、高らかに春を謳っている。

筆者 : 浅見 直希

ページの先頭へ戻る