什長が申し聞かせる「お話」は、以下のようなものだった。
そして、最後に「ならぬことはならぬものです」と、厳格に教戒する。
これが、「什の掟」と呼ばれるものだ。
属する「什」により、「お話」の内容には多少の違いがあったようだが、
最後の「ならぬことはならぬものです」は、もはや、決め台詞。
この有無を言わさぬ“断定”こそが、会津藩士の揺るがぬ「義」への信念を育てたと言っても、
過言ではないだろう。
什長が一条ずつ「お話」を申し聞かせ、「ならぬことはならぬものです」と結んだ後には、反省会へと移る。
「什の掟」に背いた子がいなかったかどうか、什長は訊ねる。
―「何か言うことはありませんか」。
小さな子には、恐ろしい場であったろう。違反したとされる者は、その後、「審問」を受けねばならなかったのだから。「審問」とは、被疑者を部屋の中央に座らせ、違反の有無を取り調べることをいう。
「審問」の結果、違反した事実があれば、什長は年長者たちとペナルティの内容を話し合い、その違反した子に相応の「制裁」を加える。
「制裁」には、以下のものがあった。
「制裁」の内容には、どこか子どもらしさが漂うも、それもそのはず、これらは、子どもたちだけで考え出されたものだという。「制裁」だけでなく、「お話」つまり「什の掟」も、同様とのこと。
ほんの六歳から九歳の子どもたちが、大人には頼らずに、自分たちだけで規範意識をもって、このような一連の仕組みを編み出すとは。まったく、その自主性たるや驚きだ。
ここには、一見、教師が不在しているようにも映るかもしれない。しかし、実際には、“地域社会”が子どもたちの良き教師として、見事に機能していた。
子どもたちは、父を見、兄を見、そして、仲間の年長者を見る。それら、先人の背中が立派に範を示していたからこそ、子どもたちは自然と、会津藩士の子弟としての、誇りと自覚を豊かに育てていくことができた。
八重も、父・山本権八、兄・覚馬の背中を見詰めながら、この「什」の教えを、心と体に沁み込ませていったのだろう。
この「什」のシステムは、今の世にこそ必要な“教育の在り方”を示してくれている―、そんな気はしないだろうか。