八重の物語

八重により深く親しむ- えにしの資料館

スポットで巡る 八重ゆかりの地

会津藩士の子弟が学ぶ什の掟

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子ども自らによる幼児教育グループ―「什」

六歳から九歳までの会津藩士の子どもたち(男子に限る)は、町ごとに十人前後でグループを作っていた。この集まりを「什(じゅう)」と呼んだ。 会津藩では、藩士の子弟は十歳になると、藩校日新館に通った。九歳以下の子たちが集まる「什」は、日新館入学前に、会津武士の“心構え”を身につけさせるための、ある種の幼児教育の場、だった。

毎日順番にグループの家に集まり、そこで、リーダーである什長(じゅうちょう)が「お話」をする。
これを「お話の什」と呼んだ。

幼い子どもたちが自らを律する―「什の掟」

什長が申し聞かせる「お話」は、以下のようなものだった。

  • 一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
  • 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
  • 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
  • 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
  • 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
  • 一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ

そして、最後に「ならぬことはならぬものです」と、厳格に教戒する。
これが、「什の掟」と呼ばれるものだ。

属する「什」により、「お話」の内容には多少の違いがあったようだが、
最後の「ならぬことはならぬものです」は、もはや、決め台詞。
この有無を言わさぬ“断定”こそが、会津藩士の揺るがぬ「義」への信念を育てたと言っても、
過言ではないだろう。

妥協のないペナルティが責任感を育てる―「審問」「制裁」

什長が一条ずつ「お話」を申し聞かせ、「ならぬことはならぬものです」と結んだ後には、反省会へと移る。
「什の掟」に背いた子がいなかったかどうか、什長は訊ねる。

―「何か言うことはありませんか」。

小さな子には、恐ろしい場であったろう。違反したとされる者は、その後、「審問」を受けねばならなかったのだから。「審問」とは、被疑者を部屋の中央に座らせ、違反の有無を取り調べることをいう。

「審問」の結果、違反した事実があれば、什長は年長者たちとペナルティの内容を話し合い、その違反した子に相応の「制裁」を加える。

「制裁」には、以下のものがあった。

  • ☆「制裁」の一、「無念(むねん)」
    「無念でありました」と言って、頭を下げて皆に侘びる。会津武士の子として、恥ずべきことを致しましたと、心からの反省を込める。これは一番、処分の軽いものだった。
  • ☆「制裁」の二、「竹篦(しっぺい)」
    つまり、しっぺ。子どものころ、じゃれてやった経験は誰しもあるだろうが、「制裁」のしっぺは、遊びではない。罪の重さに応じて、打たれる箇所も回数も違った。しっぺする者も、手ごころは加えない。加えることはできない。什長が手加減は許さんぞとばかりに、目を光らせているのだから。
  • ☆「制裁」の三、「派切り(はぎり)」
    つまり、絶交、仲間はずれにされてしまう。これは、子どもには一番つらい仕打ちだろう。一度この処分が下されてしまうと、父か兄が付き添って「什」に赴き、メンバーの子どもたちに深く侘びを入れて、許しを得なければならない。家族も巻き込む、ペナルティ。滅多に下されない処分だが、その分、実に手厳しい。

今の世にこそ伝えたい―子どもの自主性を伸ばす地域の“在り方”

「制裁」の内容には、どこか子どもらしさが漂うも、それもそのはず、これらは、子どもたちだけで考え出されたものだという。「制裁」だけでなく、「お話」つまり「什の掟」も、同様とのこと。

ほんの六歳から九歳の子どもたちが、大人には頼らずに、自分たちだけで規範意識をもって、このような一連の仕組みを編み出すとは。まったく、その自主性たるや驚きだ。

ここには、一見、教師が不在しているようにも映るかもしれない。しかし、実際には、“地域社会”が子どもたちの良き教師として、見事に機能していた。

子どもたちは、父を見、兄を見、そして、仲間の年長者を見る。それら、先人の背中が立派に範を示していたからこそ、子どもたちは自然と、会津藩士の子弟としての、誇りと自覚を豊かに育てていくことができた。

八重も、父・山本権八、兄・覚馬の背中を見詰めながら、この「什」の教えを、心と体に沁み込ませていったのだろう。

この「什」のシステムは、今の世にこそ必要な“教育の在り方”を示してくれている―、そんな気はしないだろうか。

筆者 : 浅見 直希

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