八重の物語

八重により深く親しむ- えにしの資料館

スポットで巡る 八重ゆかりの地

木々芽ぐむ春に、五穀の豊穣を祈る彼岸獅子の弓くぐり

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彼岸獅子、その由来をたずねれば

春の彼岸、春分の日に、会津若松のあちこちで、華やかにして野趣(やしゅ)溢れる舞を披露する、三体一組の美々しい獅子たち。

それらの獅子舞たちは、かつて若松に三十数組もあったといわれており、現在、その技は、「川南小松」、「東山天寧」、「猪苗代西久保」、「下柴」、「赤枝」などの獅子団に受け継がれている。

会津彼岸獅子の起源については、さまざま語られていて、古いものでは、十一世紀にその興りを求められている。十一世紀といえば、世はまだ、平安時代後期だ。

その遠い昔に、奥州(東北地方)を舞台として繰り広げられた戦乱・前九年の役(前九年合戦)―。

その九年にも及ぶ長き戦役の末に、八幡太郎・源義家は、朝廷に弓引く安倍貞任(あべのさだとう)ら安倍一族を打ち破ることに成功したものの、幾度もの激戦によって、自軍にも多数の戦死者を出してしまう。
そこで、命を落とした兵たちを弔うために、獅子かぶりの舞を奉納したとの由。それが、曰く、獅子舞のはじまり、とのこと。

あるいは、その他、会津藩祖・保科正之公が、山形から会津へ転封になった際、獅子を先頭に堂々、鶴ヶ城に入ったことをもって、会津彼岸獅子の発祥とする説なども、ある。

つまり、会津彼岸獅子の起源に関しては、定説、といったものはないようなのだ。

会津彼岸獅子、その伝承のかたち

このように起源すら定かではなく、気付いたらそこにあり、そして、代々たいせつに民の手によって脈々と伝えられてきている―、
土地に根付いた神事(あるいはそれに類するもの)とは、元来、そのようなものなのかもしれない。

また、その「技」の伝承に関しても、世代を超えて守り続けてきた、厳格な“きまり”があるようだ。
むかし、彼岸獅子の踊り手は、村の農家の長男だけに任せられるものだった。今では、婿養子でもそのお役目を給われるらしいが、それでも、長男だけに与えられる誉れあるお役目であることには変わりない。

なぜ、長男以外にはお役目を与えないかというと、代々継承してきた、その家(村)独自の「技」が盗まれるのを防ぐためだそうだ。
婿養子の場合、離縁して実家にでも戻られたら、その「技」が門外に流出してしまう。同じ理由で、次男、三男にも教えない。

この「技」の継承に対する意識の高さ・厳格さは、慣習的に根付いているだけの、ただの恒例行事の枠内には収まらない。そこには、もはや、伝統芸能の継承者に見られるが如き、凛とした使命感すら感じ取れやしないだろうか。

とはいえ、それは、伝承の重圧とか悲壮感などといった、じめっとした重苦しいものではなく、もっと清々しく、そして、もっと明るい、前向きな意志、のように思える。

そう、この彼岸獅子の舞は、なんといっても、からりと陽気な民衆たちの、春の到来を予感させる、喜びに溢れた踊りなのだから。

健やかな生への舞、それを見守る民衆の熱烈

獅子たちは、春という豊穣の季節の到来を慶賀して、舞を舞う。代々継承されてきた「技」を正しく用いて、新たな春の訪れに対し、全身でその悦びを表現する。

その踊りにもさまざまな種類があり、「一人舞い」と「三人舞い」に大別される。

「三人舞い」には、バチ舞、柴さがし、雌獅子隠し、山下ろし、大切り、袖舞があり、「一人舞い」には、太夫獅子舞、雄獅子舞、雌獅子舞、弊舞、棒舞、弓くぐり、などがある。

おもしろいのは、三体の獅子(太夫獅子、雄獅子、雌獅子)が、俗っぽい言い方をしてしまえば、“三角関係”にある、ということだ。

例えば、小松獅子団には、「女獅子隠し」という踊りがあるらしく、雌獅子を太夫獅子と雄獅子で取り合う。これは座敷舞いで、寝転がりながらその様子を、豊かに表現していく。
そうして結局、太夫獅子が雌獅子を射止めて、雄獅子は、しおしおと悔しがる。

ここからも分かるように、会津彼岸獅子は、子孫繁栄も願う。
そこには、どこかアニミズム的(原始信仰的)な、からっとした開放性が窺えるような気がする。生を肯定する前向きさとユーモアが、豊かに感じられるような気がする。

「棒舞」の棒は男性を表し、「弓くぐり」の弓は女性を表す。
この生への力強い憧れの表現は、まさに人びとの、生への営みの映し鏡―。

獅子舞のハイライトとも言うべき「弓くぐり」では、太夫獅子が弓をくぐる瞬間を、見物客たちは、今か今かと待ち構える。
そんな、彼岸獅子に向ける会津人の熱意を、よく表した歌がある。

    隠居弥太勤めの弥太も叔父弥太も
    やたらむしやうに獅子の評判
           「徒町百首俗解(渋谷原艸撰)」

「弥太(やた)」というのは、架空のキャラクター。
下級武士の居住区域である“徒町(鶴ヶ城の東方、天寧寺周辺)”に住む、ひとつの典型的な人物像を、この「弥太(徒町弥太之進/かちのまちやたのしん)」というキャラクターに託したものだ。

つまり、会津若松の徒町にすむ、匿名的な「名無しの権兵衛さん」。

この多数の「弥太」さんらが、ご隠居であろうが、務め人であろうが、そのおじさんであろうが、とにかく、老いも若きも皆が皆で、彼岸獅子の話題でもちきりだ、ということを、ここでは歌っている。

当時の「弥太」さんらは、あの踊り手の「弓くぐり」のタイミングが良かっただとか、笛の技術が未熟だっただとか、賑々しくも真剣に、熱中しながら批評し合っていたのだろう。
その様を想像すると、なんともほのぼのと牧歌的で、そして、なんとも人間らしく思える。

今の世で言えば、プロ野球観戦後の、ファンたちによる熱き野球談義みたいなものだろうか。
幕末、八重たちも、ご近所の人らと顔を近づけ合って、ひいきの彼岸獅子の噂話に興じたのかと思うと、思わず頬が緩む。

今も昔も、人間には“娯楽”が必要で、こういった夢中になれる“娯楽”が成立するというのは、何をおいても、まずは平和であることが不可欠なのだろう。
平和があり、豊穣があり、そして、そこに人の営みの幸せが生まれる。

いつまでも、この牧歌的な「会津彼岸獅子」が、どうかどうか、続きますように。
そうして、この祈りは、会津の、そして、日本の平和を祈ることと、同義なのだ。

筆者 : 浅見 直希

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