八重の物語

八重により深く親しむ- えにしの資料館

スポットで巡る 八重ゆかりの地

まことに日に新たに―教育方針は“日々成長”日新館 教科書

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藩校・日新館、採用した教科書は、四書五経

十歳を迎えると会津藩士の子弟は日新館に通うわけだが、そこで学ぶ学問の基本は、朱子学だった。

素読の授業は朝の八時から始まる。
教科書は、「四書(「論語」、「大学」、「中庸」、「孟子」)」と「五経(「易経」、「書経」、「詩経」、「礼記」、「春秋」)」に、「孝経」と「小学」を加えた、中国の古典十一冊。
それに、会津藩で編纂させた「日新館童子訓」も、教材として採用された。

十歳で入学した子弟らは、「素読所(小学)」で、これらの教科書を学んでいく。
そうして、卒業した五百石以上の長男と、それ以外でも成績・人物ともに優れた者は、次の課程である「講釈所(大学)」への進級を許される。

日新館の「大学」から、会津の人材が全国へ雄飛

「講釈所(大学)」では、子弟らは高名な儒者の講義を受けるとともに、討論や自主研究も奨励された。

このように、文武の伸張を促す気風に溢れた日新館だが、実際、江戸時代の三百諸藩の中を見回しても、最大規模を誇る教育機関であった。

江戸時代の日本の教育制度は、当時の他の文明国の水準を越えていたとも言われている。その中でも選り抜きの藩校・日新館は、世界的に見ても、明らかに優れた教育機関であったろう。

その日新館の「講釈所(大学)」を優秀な成績で修了した子弟らは、幕府直轄の教学機関・「昌平坂学問所(昌平校)」への入学や、全国遊学の機会を与えられた。

日新館で優れた才を示し卒業を果たした、八重の兄・山本覚馬も、江戸遊学の機会を与えられ、雄飛の時を迎えている。

「湯の盤銘」、その精神を宿し、前へ前へ

日本最古のプールである水練水馬場や、当時、日本に二つしかなかったという天文台を備えるなど、全国でも珍しい広範な教育を施した藩校・日新館。

このような先進的な教育姿勢は、校名にもよく表れている。

―日新館。
この校名は、「四書」のひとつ、「大学」の中で見られる、ある故事に因んでいる。

「湯の盤銘(とうのばんめい)」の故事―。
殷(いん/中国の古代の王朝名)の湯王が、沐浴の“たらい”に「苟日新日日新又日新」の文字を刻んで、戒めのための座右の銘とした、というはなし。

「苟日新日日新又日新」を読み下すと、「苟(まこと)に日に新たにせば、日に日に新たに、また日に新たにせん」となろうか。つまり、日々成長を目指し、前に進んでいこうという決意が、この言葉には込められているというわけだ。

この決意は、日新館より巣立った人材に、正しく受け継がれていった。
そして、これは、女子である八重にも、確かに継承されていくことになる。
前を向いて凛然と―。

中国の古典からはじまり、そして、会津の気風が育て上げた、“日々進歩”の健やかな精神。今の会津が、福島が、日本が、この前向きな健やかさを思い出せば、きっと何かが大きく変わる。
よい変化が、起こる。そう信じて、前を向いて―。

筆者 : 浅見 直希

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