八重の物語

八重により深く親しむ- えにしの資料館

スポットで巡る 八重ゆかりの地

「幕末のジャンヌ・ダルク」・山本八重の代名詞スペンサー銃

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八重の代名詞・スペンサー銃は、兄からの贈り物

スペンサー銃は十九世紀の中頃、アメリカの南北戦争より使われ始めた。世界初の後装式連発銃であり、戊辰戦争では「元込七連発銃」として、大いにその性能を発揮した。

スペンサー銃には歩兵銃と騎兵銃があり、歩兵銃の方は、戊辰戦争に際して、主に幕府歩兵隊や佐賀藩、それに薩摩藩などが使用していたという。

この元込め式の七連発スペンサー銃は、今や八重の代名詞ともなっているが、なぜ、このような高価な最新式の銃を、八重が持っていたのだろう。

実は、戊辰戦争の時に八重が所持していたスペンサー銃は、大政奉還の前年、慶応二(1866)年に、長崎にいた兄・山本覚馬から、八重宛に送られてきたものだった。

覚馬は、会津の地にも戦争が迫っていることを察知していたのかもしれない。

スペンサー銃は最新式ゆえに―

八重は籠城戦において、そのスペンサー銃よりも、ゲベール銃を使う機会の方が多かった。

というのも、スペンサー銃は最新式ゆえに弾丸の製造ができず、スペンサー銃の弾が切れてからは、主にゲベール銃と大砲でもって、新政府軍と対峙せざるをえなかったからだ。ゲベール銃は球形弾丸であり、新しく製造が可能だった。

その弾丸作りについて、山川大蔵(後の陸軍少将・山川浩)の妹・操子は、次のように語っている。

『弾丸は、小さく切つた紙片をひろげて、それを細い竹筒に巻きます。さうすると、紙が筒状になりますから、紙の一方をチョッと捻つて底を拵(こしら)へ、中の竹筒をスポッと抜きます。その中へ弾を入れて、その上へ火薬を入れて、紙の上の方をまたチョッと捻ります。(中略)銃も、環のついた旧式のもので、その弾丸を筒先から流込んで、環をはめて引金を引くのです。今から考へてみますと随分まだるッこいものですが、その時は、敵も味方もそれでございますから、別に不思議にも思わなかつたのでございます。尤も、しまひにはこの環つきの銃さへなくなりましたので、ごく昔風の火縄銃を使つてをりました』
(山川操子談「十七歳にて会津籠城戦に実験せし苦心」[婦人世界])

城内の女性は、こうして弾丸を製造することで、この籠城戦の一側面を必死に支えていた。また、その製造した弾丸を、小さな子どもたちは、兵たちが応戦しているところへ運んで行ったという。

老いも若きも、女も子どもも、鶴ヶ城内は、まさに総力戦だった。

その過酷な状況下にあっても、八重を始めとした女性たちは、決して絶望せず、むしろ活き活きと働き続けたというのだから、会津女人の胆力には、本当に驚かされる。

筆者 : 浅見 直希

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