八重の物語

八重により深く親しむ- えにしの資料館

スポットで巡る 八重ゆかりの地

日新館教育の根本を成した道徳の書日新館叢書 童子訓

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藩校・日新館にかけた想い―人材の育成

江戸時代の太平も二百年が続き、士道が弛みだした天明年間(1781〜89年)。「天明の大飢饉」や「浅間山の噴火」もあり、会津藩の財政は破綻寸前となって、人心も大いに荒れた。

それら、財政の窮乏化や道徳の退廃といった数々の問題を解決すべく、五代藩主・松平容頌(かたのぶ)公は、藩政改革を実施。家老・田中玄宰(はるなか)を登用し、その任に当たらせた。

玄宰は、倹約令や農村復興、殖産興業など様々な改革を進め、その中でも「教育の振興」を改革の中心に掲げた。
そうして、享和三(1803)年に、文武を広く教授する総合学校が、鶴ヶ城西隣の広大な敷地内に建てられた。五年の歳月をかけた、大事業だった。

こうして、「人材の育成」を第一の教育目標とする、藩校・日新館の歴史がはじまった。

会津藩子弟の精神的基盤―「童子訓」

このように日新館は、文武に優れた人材を育てることを目標として、十歳になった会津藩士の子弟たちに総合教育を施したが、その教育の根本を成したのが、この「日新館童子訓」(「会津論語」とも称される)だった。

「日新館童子訓」は、容頌公の命により、国学者の沢田名垂(なたり)によって編纂されたもので、上下二巻ある。 「日新館童子訓」の底本(編集などの際に、よりどころとした原本)は朱子が著した「小学」で、「童子訓」自体は、漢文と仮名交じり文が併記されたものだった。

主君への「忠」や父母への「孝」などを説いたこの道徳の書は、まさに人として正しい生き方を送るための精神的基盤として、会津藩子弟に多大な影響を及ぼすこととなる。特に両親への孝行に対しては、日常の気構えから、一つひとつの行動に至るまで、実に細かく記述されている。

超高齢社会を迎えている今日、また核家族化が進み、世代間での繋がりが希薄化している今日―、
そんな現代だからこそ、この「日新館童子訓」の教えは、じんわりと胸に沁みる。

八重もそらんじた―会津人の精神的支え

女子である八重は、日新館に通いはしなかったが、それでも、父・山本権八より「日新館童子訓」を教わり、七歳にしてそらんじることができたという。晩年、京都会津会の集いに参加した際にも、「日新館童子訓」を披露している。

八重は戊辰戦争後、京都に赴き、新島襄の影響でキリスト教や先進的な西洋思想に触れることとなったが、それでも、幼い頃に学んだ、この「日新館童子訓」の教えは、自らの精神的な支柱として、生涯忘れることはなかった。

会津人の誇りの根本は、「什の掟」と共に、この「日新館童子訓」に、確かにあった。

筆者 : 浅見 直希

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