
光明寺
〒965-0044
福島県会津若松市門田町大字一ノ堰字村西500
TEL. 0242-32-7850
- [営業時間]
- 定休日/年中無休
- [料金]
- 境内無料
- [アクセス]
- 会津鉄道「南若松駅」より徒歩10分程度
基本情報
会津若松市門田町一ノ堰の地に静かに佇む寺院。鶴ヶ城の南方に位置する一ノ堰では、会津戦争の終盤、9月15日から17日にかけて、城への食料補給路の確保をめぐり、会津藩士と新政府軍との激しい戦闘が起こって、多くの戦死者が出た。これを「一ノ堰の戦い」という。光明寺には、この戦で亡くなった会津藩士のお墓が現存している。越後方面の総督として各地を転戦した会津藩家老・一之瀬要人や、山本八重の父・山本権八も、ここ光明寺に眠っている。幕末の激しい歴史の残り香を感じながら、当時にそっと想いを馳せるー。

こだわり・みどころ
「時の声」を宿す寺院
光明寺の本堂は、自然に溶け込むやさしい茶色。清浄閑散とした空気の中、そこに立っていると、時代を遡ったかのような心地になる。境内は寂然とし、静かに立つ木々もまた、心穏やかな風情で「時」をゆるりと見詰めているように見える。ここ光明寺には、戦で命を落とした会津藩士が眠っており、そのお墓が穏やかに並んでいる。静謐(せいひつ)な中にも、歴史の重みがひしひしと。ちいさなちいさな「時の声」に、そっと耳を傾けて―。
◇静寂の中にこそ、聴こえる「声」がある

蘇る歴史的情景、宿す記憶
境内にあるお墓の1つに、山本八重の父・権八のものがある。山本権八は、会津藩士・永岡家に生まれたが、砲術家である山本佐兵衛の娘・佐久の婿となる。佐久との間に生まれた子の内、長男が覚馬で、三女が八重であった。慶応4(1868)年に起こった「一ノ堰の戦い」では、新政府軍の総攻撃に対抗し、50歳以上の藩士で構成される玄武隊士中隊の一員として出陣したが、この一ノ堰の地で、その命を落とした。享年61歳だった。
◇時を経てなお、当時の記憶を宿す墓石
