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長命寺

〒965-0861
福島県会津若松市日新町5-51
TEL. 0242-27-7003

[営業時間]
定休日/年中無休
[料金]
境内無料
[アクセス]
車:「磐越道会津若松IC」から国道49号経由約10分
JR「会津若松駅」より会津バス10分
バス停「桂林寺町」下車、徒歩10分

基本情報

長命寺は、京都本願寺第12世教如上人によって江戸時代初期に建てられた本願寺輪番(寺役を順番に交替して務める出先機関)より興り、その後、保科正之(ほしなまさゆき)公の時代に、現在の場所へと移された。それと同じころに、輪番制(寺役持ち回りの制度)が廃止され、世襲の寺となる。また、戊辰の役における会津若松の市街戦で最も激しい戦闘が繰り広げられたことでも有名。145名の戦死した会津藩士が埋葬されており、彼らの死を弔う東軍墓地もある。土塀などに残された多くの鉄砲弾貫通の穴が戦火の激しさをまざまざと見せつけていたが、現在では耐久性を保つために、いくつかの弾痕を残してほとんど塞がれてしまっている。

こだわり・みどころ

激戦のあとに

起死回生を狙う会津佐川兵団と新政府側の長州、大垣藩が衝突したのが長命寺である。その戦闘により長命寺は本堂含め建物すべてが焼失した。当時の面影を遺すものは、築地塀と親鸞上人の御影のみである。長命寺の築地塀には五本の定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い横線が走っており、これは長命寺が別格本山であることを表している。

◇戦火を耐え抜いた築地塀、今何を語るか

たった一つの戦死墓

戦闘後、会津藩の戦死者は賊軍のものであるとして埋葬はおろか、手を触れることさえ許されなかった。明治になってからようやく埋葬許可が下りたが、しかし戦死者の名前を刻むことは許されず、石碑には「戦死墓」と記されるのみ。この一つの墓の下に145人が眠っている。これらのことから会津藩士たちの無念、屈辱が伺える。地下に眠る会津藩士たちの冥福を、心から祈りたい―。

◇会津人の魂よ、安らかに

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