小松彼岸獅子(14)
photo by aizu

小松彼岸獅子(14)
aizuさんより、「春分の日」に催された、
会津に春を告げる「彼岸獅子」の舞について、
教えに満ちた、素晴らしいお便りをいただきました。
〜小松彼岸獅子 胸前、腕を組み、踊り〜
3月20日、春分の日、
会津では各地で「会津彼岸獅子」の舞が、
見られました。
今回のターゲットは、
名門「小松彼岸獅子」です。
名門とは何故? という方には、
戊辰戦争でのエピソードを、
ご説明いたしましょう。
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日光口にいた国家老・山川大蔵に、
容保公の使者がついた。
命は、「速やかに帰城すべし、
但可成途中(ただしなるべくとちゅう)の戦闘を避くべし!」
若干、24歳の山川大蔵は「可なり我に一策あり」として、
考えたのが、「彼岸獅子」を利用した入城作戦だった。
小松村の、大竹小太郎に、
勇気ある独身男性10名を集めさせた(平均15.7歳)。
城下は既に西軍に包囲され、まさに死にに行く様なもの。
「小松彼岸獅子」の楽手を先頭に、川原橋を占領していた、
長州藩、大垣藩の南側を堂々、行進した。
敵は、突如戦場に現れた異様な一団に、
唖然としながらも、傍観するばかりだった。
先頭が城に入ると初めて会津藩兵と知り、
してやられたと、地団駄を踏んだ。
城内にて籠城中の山本八重も、
きっと、この痛快な「彼岸獅子」の入城を、
眺めていたに違いない。
戦後、御薬園に招かれた獅子団10名は、
容保公から感謝の言葉を賜り、
さらに獅子の頬掛けと高張り提灯に、
会津藩、葵御紋の使用を許された。
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そう、これが、「小松彼岸獅子」が「名門」と称される、ゆらい。
―aizuさんが、教えてくださった、会津人の気骨、心意気。