vol.3「会津慶山焼」香山窯やま陶 曲山靖男さん

絶やさぬ火、文化を繋ぐ

「会津慶山焼」 伝承の物語り

昔むかし、遡ること四百余年、会津若松は、東山・慶山の地にて、ひとつの文化が生まれた。

「会津慶山焼」。

文化的にも、経済的にも恵まれた、会津若松という城下町にあって、同時に、四辺の自然の恩恵も、なお豊かに―。

そんな中、会津の伝統文化として、しかと地歩を築いてきた「会津慶山焼」だが、第二次大戦を境に、忽然と、その姿を消す。

一度は失われた、「会津慶山焼」。

しかし、志ある陶工の熱き想いの元に、再興され―、現在、ただ一軒の窯元(かまもと)が、その火を守っている。

この窯口より、未来に向けて語られる、「会津慶山焼」、伝承の物語り―

用即美

日用の中に、美を添えて

会津盆地の南東に位置し、会津若松の市街ともほど近い、慶山の地。

適度に粘り気があり、可塑性(かそせい)も高い、良質な粘土を産出するこの山は、まさに、作陶するに適した土地。

土地の恵みを活かしつつ、日常使いの器を焼き続ける―、

その「会津慶山焼」の“思想”は、気持ちの良いほど、一貫している。

―「用即美」。

虚飾(きょしょく)を削ぎ落とし、日用の中の美を、無心に求む。

轆轤(ろくろ)、手捻(てびね)り、欅(けやき)の灰釉(かいゆう)、と、伝統の技法を一徹(いってつ)に守り続ける「慶山焼」。

無闇に主張しすぎることなく、あくまでも黒子として、日常にささやかな美を、添える。

土は素朴に香り、発色はどこまでも、天然自然。その“在り方”は、慎ましやかにして、凛然(りんぜん)と―。

御城の瓦より興り

慶山焼、その歩み

文禄元(一五九二)年―、

会津領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)公により、近世城郭の普請が新たに着手され、その翌年、天を衝(つ)く、壮麗な天守が落成。

かつての「黒川城」は改められ、“七重ノ殿守”「鶴ヶ城」が、会津の地に、立った。

城には、大量の瓦が葺(ふ)かれる。

そこで、氏郷公は、九州の唐津から陶工を招致し、慶山に見出した良質な土で、瓦を焼かせた。

ここに、「会津慶山焼」は、興った。

築城が終わると、この新興の窯は、屋根瓦から、茶器などへ、その制作の場を、“日用の器”へと移し―。

そうして、柔軟に時代の求めに応じながら、「会津慶山焼」は、御用窯として、戦前まで、営々と、その命脈を保ってきた。

慶山焼の名を負うて

背負う者、香山窯やま陶

開窯(かいよう)以来、生活の器として愛されてきた「会津慶山焼」だが、先の世界大戦の後、三、四ヶ所残っていた窯元が、すべて、途絶えてしまった。

終戦直後の日本においては、まずは、食べることこそが、人びとの関心事の第一だった。器よりも、手づかみの食料―。

文化とは、つくづく、「生」が保証された上で、はじめて、存在しうるものだった。

それから、日本人は必死に、きょうを生きた。そうして、“戦後”が終わり、日本は見事に、復興を果たした。

その中で、文化的な豊かさを、取り戻す気運が興り―。

そうして、昭和四十九(一九七四)年、ある新興の窯が、寺社に遺された文献を頼りに、「会津慶山焼」というひとつの文化を、甦らせる。

その窯の名は、「香山窯やま陶」。

「慶山焼」の看板を、使命感と夢、ふたつながらを抱きつつ、己(おの)が背(せな)に、しかと負うて―。

伝統とは、守るもの

陶主・曲山靖男、窯に生き、会津を想い

一度は途絶えた「会津慶山焼」の窯に、 再び火を熾(おこ)した、「香山窯やま陶」の陶主・曲山靖男(まがりやまやすお)さん。

窯を興す以前に、普通の務め人として、 観光業に携わってきた曲山さんには、 会津の町に資することへの想いが、まずあった。

子どものころ、通学路の辻々に溢(あふ)れていた、 轆轤(ろくろ)回しに、鍛冶や機織(はたおり)の響き。 その“ものづくり”の気配を、思い出して―、

そんな「会津慶山焼」の盛時を、 そして、会津若松の活況を、甦らせたい。

火を絶やして久しい「慶山焼」を想い、曲山さんは決意する。 このまま、会津の尊いひとつの文化を、 人びとの記憶の中からなくしてしまう訳には、いかない。

「会津慶山焼」の器は、慎ましい。 慎ましいからこそ、いつも傍らに置いておける。 そんな、 “日常の友”となり得る、愛すべき「慶山焼」。

曲山さんは、この親しみやすい「慶山焼」という文化を、 会津若松を元気にする、貴重な観光資源と見なし、 外へと大きく拡げ、また、次代へと繋げていく―。

観光と感動

会津観光の、みらい

曲山さんは、この「会津慶山焼」という文化を、 “伝統産業”という、「箱庭」の中から掬(すく)い出して、 “観光”という、広い「世界」の中に置いてやる。

観光する”とは、旅人が、 食や文化、そして、歴史や人などといった、 土地の抱えるものの総体と、直(じか)にふれあうこと―。

その土地は、日常と地続きで、 でもそこには、非日常の驚きや感動に満ちており、 旅人は、それらを自分の日常に持ち帰ることができる。

そう、感動を与えてくれる「場」との交流それ自体が、 旅人にとっては、“観光”そのもの―。

だからこそ、曲山さんは努力する。 店を年中無休とし、職人とふれあえる体験工房も始めた。

旅人が、それらのふれあいを通じて心動かして、 「慶山焼」から受けた感動を、 会津観光の良い思い出として、地元に持ち帰り―、

そして、また別の誰かを連れて、会津に帰ってきてくれる。 感動が共鳴し、共鳴が繰り返されて。

それが、曲山さんが思い描く、会津観光の、みらい。

師と弟子の、人間同士の想い合い

未来を担う、たいせつな「家族」

会津の明るい未来を描くため、 再興させた「会津慶山焼」だが、 再び大きな危機に見舞われることとなった。

―二〇一一年の、あの震災。

昭和十六(一九四一)年生まれの曲山さんは、 先の世界大戦を知っている。 あの原発の事故を見て、思わず、涙がこぼれた。

震災後、会津の町を歩く観光客の姿は、激減した。

経営は、もちろん苦しくなったが、 しかし、曲山さんは、弟子を誰ひとり辞めさせなかった。

将来、「慶山焼」という文化を担ってくれる弟子たちは、 たいせつな“同志”であり、 そして、何より、かけがえのない“家族”なのだから。

文化の未来を描くのは、人。 その人を育てるのも、やはり、人。

そして、さらに詮(せん)ずれば、師と弟子だって、人と人。

そこにあるのは、心からの素直な敬意、人間同士の、想い合い―。

伝統と観光の共存

「慶山焼」は、次代に浩がる

「崩してはいけないこと」と「時代に沿うこと」―、

その二極を確(しか)と捉えて、曲山さんは、「会津慶山焼」の文化を、次の世代に伝承していく。

今を暮らす人びとから愛される、そんな“生きた文化”であるために、堅持すべきは堅持して、革新すべきは革新する。

「会津慶山焼」の伝統を絶やすまいと、日々、無心に土を捻(ひね)り、轆轤(ろくろ)を回し、火を焚いて―、

そして、少しでも多くの方に、会津を“観光”してもらおうと、全国を廻り、会津の魅力を訴え続ける。

そんな、“職人”としての生き様と、会津の“観光”への願いを、曲山さんは、後生(こうせい)に示してきた。

そうして、必死に蒔(ま)いてきた種は、いつしか旺然(おうぜん)と芽ぐみ、今や、次代の「会津慶山焼」を担う若者が育ちつつある。

震災を超え、親から子へ、あるいは師から弟子へ、曲山さんの想いは、大きく浩がり、「会津慶山焼」の、そして「会津」の未来を、豊かに描く―。

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