vol.4 「会津漆器」儀同漆器工房 儀同哲夫さん

会津が誇る、 ジャパン・ブランド

「会津漆器」伝承の物語り

会津における、漆の歴史は、古い。

平安時代の昔より、仏具、仏像などに塗られ、人の世に、豊かさと雅趣を添えてきた。

東北の要衝の地・会津においては、四百年前から、城下町文化が花開き、その時、萌した漆工芸という小さな芽は、 旧幕時代を通して、ひとつの大きな文化へと、育っていった。

―「会津漆器」。

独特な発展を遂げ、秀麗に際立つ、この会津が誇るべき伝統工芸は、現代でも、なお、その輝きを失わず―、

昔ながらの会津塗り、その手仕事の可能性は、新しい創作の場を、いよいよ、旺然と切り開いている。

世界へ、未来へと、拡がる浩がる―、会津が誇る“ジャパン・ブランド”、「会津漆器」伝承の物語り。

「会津漆器」の美の、ひみつ

「高貴な黒」と「職人の誇り」

漆器の艶は柔らかく、いかにも可憐だが、その一方で、武具や仏具の保護材にも用いられるほど、塗り面を丈夫に覆うという性質も持つ。

そういった、美しくも日用に耐える、「用の美」を有する漆器だが、やはり、その“美”の象徴は、漆黒と形容される、透徹した「高貴な黒」。

静けさと華やかさ、沈静と高揚が同居した、この日本の黒漆の“美”は、十六世紀、欧州の宣教師らによって、自国に持ち帰られ、王侯貴族らの審美的な関心すらも、大きく揺るがした。

しかし、「会津漆器」の繊細微妙な“美”は、「高貴な黒」ばかりに恃んでいるわけではない。

厳格な分業化による、職人の徹底したプロ意識―。

板物、丸物と、器の「形状」で、まず専門を分かち、そして、木地づくり、塗り、加飾といった、「工程」によって、さらに分業がなされる。

つまり、「会津漆器」には、その「工程」の数だけ、職人の誇りが注がれ、“美”が積み重ねられ―、

そう、それが「会津漆器」の“美”の、ひみつ。

東北の喉元より産し

会津漆器、繋がる命脈

政治、交通の要所には、自ずと、寺院が建ち並び、その建立の過程で、その地の産業は、いよいよ、隆々と。

東北の喉元・会津の地にあって、仏像や仏具、武具の製造と縁深い、漆塗りの技法が大きく花開いたのは、ある種、必然的な帰趨であった。

四百余年前、蒲生氏郷公の転地に伴って、旧領の近江国(現在の滋賀県)日野より、木地挽き・塗り職人が、会津の地に入り、「会津漆器」は黎明期より、燦たる光を放つことになる。

そうして、文化を愛する、歴代の会津藩主らにより、「会津漆器」は、慈しみ、育てられ―。

戊辰戦争の後には、この誇るべき伝統産業も、多くの会津人と同じく、苦難の時代を迎えるが、全国に散った会津人たちの、深い郷土愛と共に、文化を理解し、その復興に尽力した人物たちの想いがあって―、

「会津漆器」の命脈は、なお強く、現代へと、その伝承の「糸」を、繋いでいる。

会津漆器と歩んであり

塗り師・儀同哲夫のクロニクル

愛されてある「会津漆器」、その文化の「糸」を次代へと繋ぐ、塗り師、―「儀同漆器工房」儀同哲夫さん。

その人生は、常に「会津漆器」と共にあった。

会津塗り職人を父に持ち、小学生のころより、家業の手伝いを課せられ、乾燥や袋詰めなどの工程を任された。

遊びたい盛りのこと、反発は、もちろん、あった。しかし、当時、子どものお手伝いは、当たり前の時代。

「会津漆器」の“文化”としての価値など解らないまま、それでも、漆器というものを、生活の一部として、空気のように、直に肌で触れ続けていった。

そして、工業高校の漆工科にて、「会津漆器」を、初めて客観的に“文化”として学び、その価値を、尊さを、知って―、

卒業後、家業を継いでからも、様々な師を学び渡り、その先人のあたたかい教えを受け、恩に浴し、

そうして、いつしか、儀同さんは、会津を代表する塗り師として、立っていた。

「いのち」は重く

一滴を慈しむ、手作業にこだわる

家業を継いだ昭和三十年代、世は、大量生産、大量消費社会へと変遷し―、

従来の手作業による木製漆器は、時流にそぐわず、苦戦を強いられることになったが、それでも、儀同さんは、伝統的な会津塗りにこだわった。

それは、「漆」の価値を知ればこそ。そう、「漆」は、「漆の木」の血液。

二十年かけて成木となった「漆の木」の、その表面に傷をつけて、たらりと流れる樹脂こそ、「漆」。

そうして、わずか二百グラムの「漆」を流したら、その「漆の木」はお役目を終えて、その生涯を閉じる。

つまり、「漆の木」の“いのち”を頂き、人は、己が器に、彩りを添えている。

“いのち”は重く、一滴も無駄には、できない。

だから、儀同さんは、「漆」の“いのち”に感謝して、伝統的な会津塗りの手作業にこだわり、ひと塗りひと塗り、自らの手を、動かし続ける―。

会津漆器×世界・未来

融通無碍な“ものづくり”

文化は、人に、親しみ慈しまれることで、その“いのち”、魂の緒を、長らえていく。

そして、その文化を慈しむのは、何と言っても、今の時代を生きる“人”。

先人より受け継いだ、技法と材料は、そのままに、時流と、ゆらり、融通無碍に向き合って、現代の日用に耐える”ものづくり”を―。

「会津塗り」という伝統技法を背負う儀同さんだが、依怙地(いこじ)さや、力みといったものは、微塵もなく、 少年のように、どこまでも快活で、好奇心旺盛。

現在は、「会津塗り」の新しい挑戦として、”腕時計の文字盤塗り”に、取り組んでいる。

「漆だったら日本」と、凛とノーブルな「ジャパン・ブランド」が、腕時計という“かたち”になって、海を渡り―。

「会津漆器」は、斬新なデザイン、新時代の文化として、世界へ、未来へ、その可能性の両翼を、大きく拡げている。

恩廻り、文化の息は常永久に

もちつもたれつ、学び合い

儀同さんは、先人より受け継いだ技を、恩を、感謝と共に、次の世代に、送る、贈る―。

儀同さんより学びを得て、今や、職人として、立派に独り立ちしている者たちも、少なくない。

そして、現在は、「会津漆器技術後継者訓練校」にて、「会津漆器」の未来を担う若者を、育成している。

しかし、ここでも、儀同さんは、あくまで、からりと、一個の人間。師弟という立場の差など意識せず、対等に。

儀同さんの“経験・技術”と、若者の“自由な発想・価値観”を、もちつもたれつの、交換っこ。

先人と後生の、こういった“刺激”の交流は、文化に“健やかさ”を廻らせて―。

その中で、先人から頂いた教えとご恩は、川の流れのように、自然、後生へと手渡され、そうして、文化の息は、常永久に―。

「会津漆器」の未来を、紡ぐ

人と文化は、共に生き

「会津漆器」と共に人生を歩んできて、儀同さんが、得たもの、

―それは、何より、人、だった。

尊敬できる職人の先達だけでなく、お弟子さんや、お客様など、「会津漆器」という文化が、引き合わせてくれた、 すべての出逢いが、大事な大事な、授かり物。

先の震災直後のこと、会津若松へ避難して来られた方々を元気づけようと、「会津漆器」の体験指導を務めたことがあった。

その時、ある女の子が言ってくれた言葉に、儀同さんの心は、奮えた。

―久しぶりに、楽しかった。どうも、ありがとう。

文化が人を生かし、そうして、人に必要とされた文化も、また、生きる。

儀同さんは、今日もまた、先人と後生、文化と人を繋ぐ「糸」として、「会津漆器」の未来を、大きく鮮やかに、紡いでいく―。

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