ポエムピクチャーアーティスト MIKAKOさん

会津物語

会津物語のロゴが生まれるまで。

「詩」の持つ言葉の響きと、「絵」の持つ豊かな色彩によって、独特のあたたかいメッセージを伝える、
「ポエムピクチャーアーティスト」・MIKAKOさん。

MIKAKOさんと「会津物語」は、2012年の秋に、出逢いのご縁を得た。
「会津物語」の現地コーディネーターを引き受けて下さった、「きもの伝承 きずな」(会津若松市七日町)の
店主・三澤広明さんが、このご縁を結んでくれた。

MIKAKOさんのあたたかい「ポエムピクチャー」の世界に魅せられた私たちは、さっそく「会津物語」のロゴ制作をお願いし、
そして、MIKAKOさんは、伸びやかで力強い、すばらしいロゴを描いてくれた。

ここでは、「会津物語」のロゴに込めた彼女の“想い”について、お話を伺いたいと思う。

彼女が、どんな人生を歩み、どのようにして「ポエムピクチャー」を生み出したのか。
そして、どんな経緯で、三澤さんと出逢い、「会津物語」と巡り逢ったのか。

MIKAKOさんに訊く、「会津物語」のロゴが生まれるまで―。

Interview

人と人、恩をめぐらす、「お返し」の人生。

編集長
MIKAKOさんの作品を見ると、言葉に対する感覚の豊かさに、はっとさせられるのですが、
昔から言葉というものは、MIKAKOさんにとって身近な存在だったのでしょうか?
MIKAKOさん
私は言葉がもともと大好きで、中学生の時に詩を書いていたんですよ。
大人になって、色々な方から、珍しいねなんて言われて、驚いたんですけど。
中学生ってみんな、詩を書いているものだと思ってて(笑)。
その当時は、詩を書くことが私にとっては普通なこと、
ライフワークのひとつだったから。
編集長
詩を書くきっかけっていうのはあったんですか?
女の子だと、例えば少女漫画などの影響だとか…これはちょっと偏見でしょうか(笑)。
MIKAKOさん
私の場合はどちらかと言うと、詩を書くっていうのは、自分の心の内を吐き出すってことだったので。
反発だったり、持って行き場のない感情だったりを、詩にぶつけていた気がします。
編集長
とても感受性の強いお子さんだったんですね。
MIKAKOさん
はい、客観的に見て、そうだったんだと思います。小学生の頃は、ひとりで過ごすことが多くて。
でも性格はこのまま、活発な子だったんですけどね(笑)。
ただ、私の出身地・山口県の岩国市って米軍基地があるので、基地の子どもたちとは交流を持っていました。
そこで、英語に触れて、いつか海外に行きたいなって気持ちが芽生えたんですね。
編集長
なるほど。そして、そういう海外への思いを抱える一方で、
中学生の時には、詩を書き始めていた、と。
MIKAKOさん
そうそう、行き場のない気持ちを託して(笑)。
編集長
感受性、ですね(笑)。
MIKAKOさん
そして、高校に上がって、17歳で転機を迎えました。
「人ってひとりじゃ生きられないんだな」って、初めて素直に思えたのが、この17歳の時だったんです。
それまでは、社会に反発していたし、自分に卑屈な部分もあったから、素直に人にも頼れなくて。
でも、人って頼り頼られて生きているって、わかったんです。
そして、それからは、「見返し」じゃなくって、「お返し」の人生にしようって。
編集長
「見返し」じゃなくて「お返し」…ほんとにきれいな“言葉”ですね。

まだ見ぬ誰かのために、元気や勇気を。

MIKAKOさん
人に「お返し」していく人生を歩もうと思ったのはいいんですけど、
自分には何もないんですね。
編集長
何もない?
MIKAKOさん
何かを表現したくても、「絵」も「書」もできないんです。
編集長
あ、昔から絵や書道を習っていたわけじゃないんですね。
MIKAKOさん
はい、実は、そうなんですよ(笑)。
そんな中で、19歳の時にイギリスに留学に行きました。そして、そこで路上アーティストを見て、何と言うか、
ぱあっと目が開かされた気がしたんです。
誰が聴いていようがいまいが、お構いなく、自分のパフォーマンスに集中しているその姿が眩しくって。
元気や勇気って、目の前で「はいどうぞ」って手渡されるものじゃなくって、
こうして、知らない間に頑張っている人からもらうものなんだな、って思いました。
そして、自分も、どこかで誰かの力になれる人になろうって、そう思って帰国したんです。
編集長
実りある海外留学だったんですね。
MIKAKOさん
はい、おかげさまで。
そして、帰国後、路上でアーティスト活動を始めました。
短大を卒業して、OLをしながら個展や路上でアーティスト活動を続け、2006年に独立しました。

次の世代の日本人に、伝えるべきもの。

編集長
そして、2006年に独立してからは、ずっと国内で?
MIKAKOさん
いいえ、2008年にヨーロッパへ1人旅にいきました。
海外で個展を開こうかなと思って。
編集長
それは、すごい。どこを回ったんですか?
MIKAKOさん
3週間ぐらい、パリやロンドン、ローマにベネチアなどを回りました。
学生の頃、2000年にイギリス留学していましたから、個展会場を探しがてら、
昔のホームステイ先も訪ねてこようと思って。
編集長
懐かしいヨーロッパを、存分に堪能できたんじゃないですか。
MIKAKOさん
それが、2000年の頃と比べて、気に掛かることがあったんです。
編集長
気に掛かること?
MIKAKOさん
ええ。世界の中で日本は、どう見られているんだろうって…。
なんて言うか、その時、世界における日本の存在感だとか影響力みたいなものが、
たった数年で、すごく落ちたなっていうのを、肌で感じたんです。
編集長
2000年の頃と比べて、そんなに顕著に感じたんですか?
MIKAKOさん
そうですね。
向こうに住んでいる日本人の方々の話を聞いても、これはちょっとまずいなって。
経済の上でも政治の上でも、もしかしたら、文化の上でだって、
どんどん日本は立ち位置を失ってきているんじゃないかなって、そう感じました。
それじゃあ、自分はどうするべきかって…危機感ですね。
編集長
危機感…。
MIKAKOさん
自分はちゃんと次の世代に、日本を日本として渡さなきゃいけないな、と思って。
昔から脈々と受け継がれてきた日本の歴史や文化を、正しい“かたち”で次に繋げていかなきゃならない、って。
それで、日本人として育まれてきたものを継承するために、何をしようかっていうのを、帰国後、すごく悩みました。
編集長
海外旅行中に、日本に対してそこまで当事者意識を持った見方ができた、ということに、まず驚きました。
詩人として日本語に親しみ、一方で英語にも幼少から触れていたMIKAKOさんですから、
日本というものを相対化する視点が、昔から人より備わっていたのかもしれないですね。
MIKAKOさん
どうなんでしょう?
でも、もしかしたら、そうかもしれません。
編集長
そうして、帰国してから、何か活動に変化はあったんですか?
MIKAKOさん
はい。
「大和ことば」に出逢いました。
編集長
大和ことば?
MIKAKOさん
「大和ことば」というのは、縄文時代の昔からある、「音の響きによる言葉」のことです。
今でいうと、「訓読み」のことですね。
私は、その頃には、言霊(ことだま)の勉強もしていたんですけど、ちょうど悩んでいたその時期に、 「大和ことば」の先生とも巡り逢えたんです。
これを勉強することで、古来より続く言葉の大切さや、それに伴う文化などを正しく継承して、
日本語の尊さを伝えられる人間にならなきゃいけないんだ、って思いました。
編集長
悩んでいる時に、本当に必要な人と出逢えるなんて、
なんというか、奇跡的なことですね。
MIKAKOさん
ほんとうにね!
その翌年は、丸1年間、先生に付いて勉強させてもらったんですよ。

「会津物語」コーディネーター・三澤さんとの出逢い。

MIKAKOさん
そして、その年の5月に先生が会津で勉強会を開くっていうのを聞いて、
「すみません、私もついていきます」って(笑)。
編集長
さすが、すごい行動力ですね!
MIKAKOさん
この1年間で、先生が行う講演は全部聴いちゃおうと思って、全国、追っかけました(笑)。
そして、その勉強会で「偉人伝」をやっていたんです。
月によってテーマがあって、その時に、三澤さんがいらしていました。
編集長
なるほど、
そこで、三澤さんと親しくなったんですね?
MIKAKOさん
はい。
懇親会の席で、「ひとり女の子がいて、なんと山口から来てます」、なんて話になって。
そしたら、その出席者の方々が、すごく優しくしてくれて、
翌日、会津観光をしたいって言ったら、大勢で案内してくれました笑)。
編集長
その中に、三澤さんがいらっしゃったと(笑)。
MIKAKOさん
着物着てらして、目立ってたんですよ、三澤さん。
みんな日本に対する“想い”みたいなものはよく似ていて、熱く話をしたのを覚えています。
編集長
それで、三澤さんとの繋がりができたんですね。
MIKAKOさん
はい。
出逢って1年後くらいには、三澤さんのお店・「きもの伝承 きずな」さんの看板を書いてくれってお話を頂いて。
嬉しかったですね。

つながるー「会津物語」のロゴへ。

編集長
その繋がりのおかげで、今回、「会津物語」が、こうしてMIKAKOさんと出逢えたわけですね。
多くの出逢いが積み重なった上でのご縁、すごく感慨深く思います。
MIKAKOさん
ほんとうに、そうですね。
編集長
改めて、今回、「会津物語」のロゴ制作を快く引き受けて下さって、
ありがとうございました。
MIKAKOさん
いえいえ。 会津は震災後につらい風評被害を受けていますよね。だから、何か力になりたいなって、ずっと思っていたんです。
たまたま相馬市とご縁があって、ボランティアで詩を書かせてもらっていたのですが、
今回、会津のために何かできて、こちらこそ嬉しかったです。
私はもともと山口の人間です。歴史的には、戊辰戦争などで、お互いにつらいことも哀しいことも、確かにありました。
今まで、数々の行き違いもあったと思います。
だけど、会津の人たちと山口の人たちは、心の底に流れている、根本的な「日本人の精神」みたいなものが、
どこか似ていると思うんです。
編集長
似ている?
MIKAKOさん
それぞれの土地に根付いた力強さというか。
編集長
私も会津に取材に行って、その力強さは強く感じました。
山口もそうなんですか?
MIKAKOさん
山口も強いですね。熱い人、多いです(笑)。
その郷里に対する愛情も、すごいですし。
編集長
なるほど。似ているんですね。
私も、会津の方々の地域愛の深さには驚かされました。
その熱量には、気圧される思いがしたほどです。
MIKAKOさん
福島は去年から、震災や天災などが重なり、なんだか試されているみたいに見えます。
でも福島の人たちが持っている、特に会津の人たちが持っている辛抱強さや、底力を、私は信じています。
テレビなどでしか情報は掴めていないんですけど、それでも、何か力になりたくって。
山口の県人会で、会津のために何かしてあげられたらって話をしているんですけど、なかなか果たせませんでした。
だから、三澤さんから「会津物語」のロゴをって電話を頂いた時は、すごく嬉しかった。
私にできることがあるのならって。
編集長
さっき、キーワードが出ましたけど、戊辰戦争で確執がある会津と山口ですが、
それを乗り越えて、こうして、山口県人のMIKAKOさんが、会津のためにと言ってくれている。
これは、すごく意義深く、昔から考えると、奇跡的でさえあると思います。
MIKAKOさん
私が以前、会津大学で講義をさせてもらった時に、山口に行ったことがあるという女性と、話をしたことがありました。
その方は60歳くらいだったと思うんですけど、山口に行ったら、すごく良くしてもらったと言ってました。
そして、その方は、こうおっしゃったんです。
「自分たちが抱いている辛さと、山口の人たちが抱いている辛さは一緒だった。だから、どっちも痛かったよね」って。
「戦いだからやっぱり、どっちも痛いよね」って。
本当にそうだと思いました。
その時その時で、真剣に生き抜いた人たちがいて、わたしたちができることは、その人たちの生き方や精神に、
誇りや敬意を持つことだけなんですよね。
だから、会津は会津ですばらしい誇りがあるな、長州は長州ですばらしい誇りがあるなって、思うんです。
先人たちが守ってきてくれた「時」があって、そして、「今の日本」がある。
代々積み重ねてきた「時」を、いかに次の代に繋ぐか―、そういった使命が、私たちにはあると思うんです。
その中で担う役割として、私は、“書く”、ということを頂きました。
編集長
そのようなMIKAKOさんの“想い”を乗せた、「会津物語」のロゴには、
本当に凛とした力強さを感じます。
それでは、最後に、「会津物語」をご覧になっている方々に、
メッセージをお願いいたします。
MIKAKOさん
はい。今の会津の力になりたいという“想い”が、まず、ありました。
見えるもの、視覚で訴えるものの力を、私は信じています。
会津への精一杯の“想い”を込めて、私はこのロゴを書かせてもらいました。
ご覧になった方が、会津に親近感を抱いてくれて、会津を訪れ、
そして、会津を深く、心地よく感じてくれたらいいなと、願っています。
そして、この「会津物語」のロゴが、みなさんに愛されて、豊かに育っていってくれたら、しあわせです。

編集後記

私は、MIKAKOさんと話をしていると、会津の方たちに話を伺った時と同じような感覚を覚えた。

MIKAKOさんには、先祖たちから繋がっている、「糸」が見えているのではないか。
先祖から自分の体へと伸びる「糸」、つまり、自分のルーツを自覚してMIKAKOさんは生きているのではないかと、
そんなふうに、私には思えた。

会津の方々やMIKAKOさんのように、自分と郷里・祖先との繋がりを、強く強く、心に刻み付けながら日々を生きている人たちが、
この現代の世にも居るということに、私は感動した。

会津を取材していて、気圧される場面が何度もあった。こちらが、後ろめたく思うくらい、気圧されることすら、あった。

それは、日本人としての密度の差、だったのかもしれない。私は、会津の方々やMIKAKOさんと接し、
先人たちより脈々と続く日本人の凛然たる誇りに、触れた心地がした。

Artist profile

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